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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

介護の中の「幸せ」とは

「四つ葉の幸せ」

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四つ葉のクローバーは
見つけると幸せが訪れるという。
小さい頃から
いくつもいくつも
四つ葉のクローバーを見つけては
母がしおりを作ってくれたが
幸せはそうやすやすとは訪れなかった。

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幸せとは訪れるのではなく
心の中に見つけるものだ。
そう気づいて
四つ葉のクローバーを見つけるように
心の中に幸せを見つけ続けた。
認知症の母との一日一日の中でも。

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クローバーについては続きの話がある。
五つ葉は金銭上の幸せ。
六つ葉は地位や名声を手に入れる幸せ。
七つ葉は九死に一生を得るといったような
最大の幸せを意味すると。
五つも六つも七つもいらないなあと思う。
四つ葉で十分だと思う。

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母のしおりには言葉が添えられている
「四つ葉を手にすることより
 四つ葉を見つけることを楽しみなさい」と。
「四つ葉」を「幸せ」と置き換えて
母の言葉を読んでみる。

  『この手の空っぽは
   きみのために空けてある』(PHP出版)
          イラスト=藤川幸之助yotuba.jpg

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 パソコンのハードディスクを「幸せ」という言葉で検索したら、とにかく多量の「幸せの詩」が見つかった。こんなに書いていたかと驚くほどの数だ。ずっと幸せを感じたのであれば、私は「幸せの詩」は書かなかっただろうと思う。幸せをあまり感じなかったから、いや、「幸せ」が何なのか分からなかったから、詩の中で「幸せ」を私は追求した。
 日付を見ると、母を介護始めてから書いたものが大部分だった。詩という形で、介護という生活の中にどんな幸せを見つければいいか、自問自答を繰り返していた。思い通りにならない自分の人生にもがき苦しみながらも、そこに一筋でもいい希望の光を見つけたかったのだ。でも、私には、「幸せ」が何なのか長いこと分からなかった。
 そんなある日、「お前の人生は不幸せだなあ」と言われた。そう言われても、ぴんと来なかった。自分の人生が不幸だと思ったことがなかった。確かに、母が認知症になり、介護を引き受け、離婚をし、再婚した妻を乳癌でなくし、めまぐるしくいろんな出来事が私のまわりに起こった。確かに、辛く悲しい思いもいっぱいした。幸せが何か全く分からなかった。でも、それは不幸ではなく、私の人生そのものなのだ。その人は、不幸せを出来事や人生の状況だと思っているに違いなかった。しかし、むしろその人の言う「不幸な」私の人生の出来事一つ一つを私は誇りにさえ思っていたのだ。この人の言葉が、私の人生を見つめ直すいい機会になった。
 認知症の母との介護の日々こそ、思い通りにならないことの連続だった。そして、その一つ一つを私なりに乗り越えると、それが自分の自信になった。重荷を背負い歩くのは、骨が折れる。しかし、精神の足腰を強くしてくれているという実感があるのだ。自らの人生を引き受けることこそ幸せかもしれないとこの頃思うようになった。私に起こる人生を引き受け、乗り越えると、また目の前に自分の人生が開けていく。それが幸せなのかもしれないと思うようになった。つまり、幸せは人生の結果ではなく、その過程にあるように思うのだ。
 お金持ちになることが幸せだと思っていたときもあった。偉くなるのが幸せだと思っていたこともあった。他の人にとってはそれが幸せなのかもしれない。しかし、私にとっての幸せとは、どうもそこら辺ではなさそうなのだ。自分のできることで人を支えること。人の幸せを助けること、それこそが私の幸せのようだと母との日々を振り返って思う。でも、そんなに大げさに人生を振り返らなくても、「幸之助」という自分の名前にそのことはしっかりと刻んであるではないか。どの詩が人気があるのかなあなんておもいつつも、今日は「幸せ」という題の拙作を並べてみた。幸せについて考える機会にしてもらえれば、幸甚である。

●詩「そよ風のような幸せ」●

母が死に向かって
一歩一歩
歩いている
私は見えない幸せを探して
一歩一歩
歩いている

時には私の道を
母の道に重ねて歩く
いつか必ずと言える
幸せが見つからない
死に向かっている母の中に
どんな幸せを
見つけていけばいいのか
母の死を見つめている私の中に
母とのどんな幸せを
願えばいいのか
食べ物を飲み込めなくなった母
やせ衰えてしまっている母
胃瘻を通すことになった母
こんな毎日に
どんな幸せが待っているというのか
死が待っているだけじゃないか

口を閉ざし、何も食べない母と
それを見て困惑している私に
寝たきりの隣のお婆ちゃんが
「心配ですね お母さんもがんばってね」
と励ましてくれた
母が私を見て笑った
そよ風のような微かな幸せを感じた

目指す幸せなどいらない
母が死にたどり着くまで
母と一緒に
生きていることに
幸せを感じていけば
これが幸せなのだ
そよ風のような幸せを
感じていけばいい
それでいいのだ
(書き下ろし)

●詩「満月の照らす幸せ」●

ある夜
海へ行くと
真っ暗な大海原の上に
満月が上っていた
真っ暗な海の中で波は揺れ
月明かりがその揺れにあわせて
ちらりちらりと微かに光っては消え
消えては光っていた
この微かな光が幸せなのかもしれない
そして、この真っ暗な大海原は
悲しみに例えるほど卑小なものではなく
これこそが幸せを映し出す
人生そのものなんだ
この人生の大海原の中に
微かな光も見逃さぬよう見つめる
すると、そこにはきっと幸せはあるのだと
満月の下に広がる
真っ暗な大海原を見つめながら
認知症の母との幸せのことを考えたのだ
『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規)

●「幸せ」●
  
 きみは、空の私を見上げて聞く。幸せって、この壁の向こう側に落ちているのかと。空の私は答える。壁の向こう側は、きみのそちら側とまったく同じだと。きみは、空の私を見上げて尋ねる。それじゃ幸せって、あの山の向こう側から鳥が背中に乗せて運んでくるのかと。空の私は答える。山の向こう側は、きみのいるそちら側とそんなに変わらないのだと。きみは、また空の私を見上げて聞く。幸せって、その雲の裏側にかくれているのかと。空の私は答える。雲のこちら側は、ただ雲が白く広がっているだけだ、ほかに何もないと。
 きみは私に尋ねる。幸せって、トンネルの向こう側からトランクに入れて人が運んでくるのかと。空の私は答える。トンネルの向こう側の人もきみと同じような事を言っているのだと。きみは、海に映った空の私に尋ねる。ならば、悲しみって、西の水平線の向こう側に夕日といっしょに沈んでしまうのかと。私は答える。水平線の向こう側には、きみの見ている水平線とまったく同じ水平線があるだけだと。きみはまた空の私を見上げて聞く。幸せってなんですか?と。私は答える。幸せ?私には全く分からないけれど、きみの笑顔を見ると、私はとても幸せになるんだと。きみは空の私を静かに見上げて小さくうなずく。そしてきみは「これが幸せというものなのですね」とほほえむ。空の私は青く高く輝き、きみと一緒に幸せになる。
『やわらかなまっすぐ』(PHP出版)

●詩「幸せの小さな粒が」●
  
どうやっても
自分の思い通りにならないことがある
誤解されたまま文句を言われ
非難されることもある
どれだけがんばっても
どうにもこうにもがんじがらめで
進めない時もある
そんな時は
歯を食いしばり
しっかりと言葉を自分の中に閉じこめる
口を閉じ、ただただ歯を食いしばる
しっかりと歯をかみ合わせ
自分自身を食いしばる
すると
プツンとつぶれる音がする
そして中から
ほんの小さな幸せが
ちょこっと広がるのだ
〈幸せの小さな粒〉が
プツンとはじけて広がる
かすかな音が聞こえるのだ
そんな時こそじっと歯を食いしばれと
かすかな音が聞こえてくるのだ
『やわらかなまっすぐ』(PHP出版)

●「青空という幸せ」●
  
幸せは
青空のようなもの。
ずっと青空だったら
青空のありがたさも
美しさも
こんなには感じない。
雲が流れ
雲に覆われ
青空は見えなくなり
時に雨が降り
青空を待ちこがれて
やっと青空の美しさに
心打たれる。
母の介護の中で
苛立ちという雲が出て
悲しみという雨が時に降ることで
その後ろに広がる
青空のような本当の幸せが
私にはしっかり見えてきたようだ。
青空は
ただ頭上に広がっているもの。
幸せもまた
ただあるもの。
求めるのではなく
気づくものなんだ。
『手をつないで見上げた空は』(ポプラ社)

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◆SAKさん、コメントありがとうございます。「自覚した日から数年経ちましたが、今はできる限り母と向き合い、もっともっと母の事を知りたいと思っています。」とSAKさん。私も認知症の母のことを知ろうとして、母に向きあいましたが結局あまり分かりませんでしたし、最初の内は母との現状は全く変わりませんでした。しかし、母のことを知ろうとすることで確実に変わったものがありました。それは、私の心であり、この私自身でした。そして、心が変わっていくと、私の見つめる母との世界も変わっていきました。知ることよりも、SAKさんがおっしゃるように「お母さんと向き合い」「知りたいと思い」、「知ろうとすること」がとても重要だとSAKさんのコメントを読みながら思いました。


コメント


「しあわせ」
今ここにいることかなぁと思います。

お金持ちだと幸せなのか・・・

人それぞれの「しあわせ」のものさしは違うんじゃないのかなぁと思います。
今の私の生活を見て「あなた、それでしあわせ?」という人もいるでしょうし。

ここ数日流れ星を見るために、夜空を見上げています。1時間に40~50個とニュースでは言っていましたが、何せ山間部なので寒くって・・・寝袋かカイロをたくさん抱えてみないと風邪ひいてしまいそうです。
さて今日も夜空を眺めましょうか (*^_^*)


投稿者: ぷー | 2009年10月22日 14:22

数年前まで幸せとは
『自分の思い通りになる事』と、考えていましたが
この近年、大切な人との別れを機に様々な人と出会い、
その考えがどれだけ自己中心的であったかを痛感させられました。

そして最近、仕事を通して自分が感じる幸せの形が変わってきているように思えます。
それはまさに藤川さんがお書きになられている
『人の助けに自分がなれた時』です。

今の自分が相手にしてあげられるベストは何か?
そう考えながら今は周囲の人と接するように心がけています。

様々な人の出会いで今の考えに至れた事は、
僕にとってはかけがえのない人生の宝です。
そう思わせて頂いた人の中に、
藤川さんの作品やお話も、当然入っています。

この場を借りてお礼申し上げます。
『藤川さん、ありがとうございました。』


投稿者: SAK | 2009年10月27日 23:03

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


『満月の夜、母を施設に置いて』
著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
ご注文はe-booksから
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