スパゲッティ症候群の私
「臭い」
眠れず真夜中海へ行った。海の臭いが鼻を突いた。死んでいるのか生きているのか。明か暗か。不安なのか安心なのか。希望なのか絶望なのか。喜んでいるのか悲しんでいるのか。ゼロなのか無限なのか。愛なのか悪なのか。黒なのか透明なのか。…真夜中の海はそんな臭いがした。
翌日、母の胃に穴を開けた。母に無断で母の胃に穴を開けた。そこから直接胃へ食事を入れるために。この管の奥には、母の胃の中の暗闇が、真夜中の海のように広がっているにちがいない。母がしっかりと私の手を握って離さない。今日から母の意志とは関係なく母は生かされていく。味わうこともなく、噛むこともなく、飲み込むこともない自分が、なぜ生きているか?そんな疑問も母にはわくはずもなく。
「母さん手術ご苦労さん。今日から元気になって元に戻るぞ。」顔を寄せて自分で自分を励ますように母に声をかける。「何言ってんだ」と母がゴポッとゲップをした。口から臭う独特の臭い…。真夜中の海の臭いがした。
写真=藤川幸之助
スパゲッティ症候群という言葉がある。決してスパゲッティを毎日食べずにはおられない病気というわけではない。身体中にチューブやセンサーなどを体にさしこまれた重症患者のことを嘲弄(ちょうろう)してそう呼ぶのだそうだ。気道チューブ、導尿バルン、動脈ライン、サチュレーションモニタなどの重なりをスパゲティの麺に見立てているのだろうが、つながれたうえ、揶揄(やゆ)されたのでは重症患者にとってはたまったものではない。このような管につながる場合、意識をなくしているか、判断力を失っている場合が多いからだ。つまり、スパゲッティ症候群という病的傾向の主は、それを判断する側である家族であると考えるのが道理だと思う。
そういう意味では、私はスパゲッティ症候群ということになる。母が食事をせず亡くなろうとするとき、母に胃瘻をつないで、母を「生かされている」存在にした。理想が機械による長生きではなく、自然な状態で死を迎えるというQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の考え方もよく分かるし、自分の場合も自然な状態で死を迎えたいと思う。しかし、母のこととなると簡単にはいかなかった。
認知症の母を、私の住む街に連れてきた。この病気は環境が変わると病気も進む場合が多いと聞いていた。案の定、母もこの例にもれず、片言で喋っていた言葉もなくし、歩かなくなって車いすの生活になり、食べ物を嚥下(えんげ)できなくなった。母はみるみるやせていった。頬もこけ、二の腕は骨に皮がぶら下がっているようになった。そこで、胃瘻(いろう)造設の話を医師から聞いた。その時、「胃瘻はどうされますか?」という医師の質問に、私は驚いた。胃瘻を取り付けて、母を生かすのが当たり前だと思っていたからだ。「食事をしないということは死を迎えたことなんです」と医師は続けた。
最終的には、胃瘻の造設をお願いしたが、胃瘻の施術の前の夜まで悩んだ。私が幼い頃、母といっしょにテレビを見たことを思い出した。テレビの中の管につながれた植物状態の女性を見て、「あんな状態になるまで生きていたくない」と母は言っていた。そのことを思い出したけれど、胃瘻の造設を断ることができなかった。「母さんいつまでも生きていてくれ」という思い。亡き父に母の介護を頼まれて、母を死なせるわけにはいかないという思い。お父さんはあんなに一生懸命介護していたのに、息子は介護を放棄してお母さんを死なせたと思われるのではないかという人の目も気になった。母もこの朦朧(もうろう)とした意識の中で生きるより、早く亡くなった父に会いたいのではないかとも思った。認知症の母に、リビングウイル(尊厳死を求めて、事前に延命を望まないという意思)を確認しようにも確認できるはずもなく、いろんな思いが頭の中をぐるぐると回り続け、施術の当日まで私は迷い続けた。
母にとっての尊厳ある死は、胃瘻造設のあの時ではなかったのかと、今でも思うときがある。そして、母のリビングウイルは、幼少の時のあのテレビを見ての母の言葉ではなかったかと。胃瘻造設以来、私に母は生かされてきたのではないかと落ち込むときがある。でも、私にはあの時母を死なせることはできなかった。自然死こそ尊厳死である。このことは重々分かっていたけれど、母を死なせることはできなかったのだ。
病院のベッドに横になり、私が声をかけると私を見つめて声を上げる母がいる。そんな母の髪を解き、足をさすりながら、「母のリビングウイルも変わることもあるだろう」と自分に言い聞かせる。そして、いつも胃瘻を造設してからのこの10年が頭をよぎる。胃瘻を付け、生かされてからの母の「生」は決して無駄ではなかった。寝たきりの「そこにあるだけの存在」になってからも、母は私に、認知症や介護を通していろんな経験をさせてくれた。私を人間として育ててくれた。言葉のない、ただ私を見つめるだけの母。これもまた、人の「生」の立派な有り様だとつくづく思う。スパゲッティ症候群だった私には、こう思うことがせめてもの救いなのだ。
先日、舌根が落ちて呼吸が困難になり、心房細動が続く母の状況を医師から聞いた。脳の機能低下などから、突然呼吸が止まることも考えられるので、その場合人工呼吸器をどうするか?との相談もあった。「母はこれまで一所懸命に認知症という病気と闘ってきました。もうゆっくり休ませてあげたい。」と言って、人工呼吸器を断った。そう言った後、「でも」と私が迷っていると、「今、すぐに決めなくてもいいんです。気持ちが変わったら教えてください。」との医師の言葉が心強かった。その言葉に、救われた気がした。人の気持ちは、移ろいやすいもの。確認しようもないが、テレビを見ての母のリビングウイルも今はどうなのか分からない。私は、このブログの始めに「自分の場合も自然な状態で死を迎えたいと思う」と書いたが、この文を書き終えたこの今ではもう迷っているのだ。
◆N子さん、コメントありがとうございます。「父が亡くなって3年が過ぎ、この頃になって思う事があります。父の好物や趣味が意外と私と同じかもって。」とN子さん。私も父の好物と同じだと思うものが、ウナギの他にもあります。スイカとラッキョウです。年をとるごとに好みが父ととても似てくるのを感じます。でも、ご飯に牛乳をかけて食べるのが父は好きでしたが、どうもこれだけは私にはできません。でも、N子さんのお父さんは、バナナケーキとクッキーを供えてもらった上に、旅行の土産にタバコを供えてもらえるとは、とても幸せだと思います。私は20代でタバコはやめましたが、炭水化物を食べた後のタバコは、これがまた格別なんですよね。お父さんはとても喜んでいらっしゃると思います。
コメント
久しぶりにコメントさせてもらいます。私も7年前夫を癌で亡くしました。父母も病院で半スパゲッティ状態でした。それでも遠い病院に1日置きに出かけるのは身体的にも苦痛でしたが、今日は大丈夫かな?と思い何とか最後まで看取ることが出来ました。夫にはほとんど病院に10ヶ月缶詰状態でストレスも頂点に達していましたが、辛いのは夫のほうが何百倍も上だろうと思い必死に頑張っていたのです。でも癌にはどうしても打ち勝てず、天国へ召されかけ時、Drより救命装置つけますか?と打診されました。私は暫く考えた後、「もういいです。これ以上苦痛を引き伸ばしてあげたくありません。」と答えていました。体は痩せこけ脊椎転移の為胸から下は全く動かせず、少し皮膚に触れるだけで異常な痛みが走り、体をさすることも出来ず、夫にとっては地獄の状態だったろうと思います。体を元気にする為の食事も、一口食べるだけで腹いっぱいと言い直ぐに吐くの繰り返し、その状態でチューブ挿入して苦痛延長したくなかったのです。本人の意思ではなかったのだけど、代わりに私から断っていました。だから意識の無い人にも生きれる体が残されているようなら、スパゲティも有りと思います。因みに姑(87歳)は「おりゃよかバイ」と言ってます。今度の写真考え深いです。船(命)を繋ぎ止めるカン(輪)が!私も良く漁港の夕日撮ります。
初めまして
図書館で「満月の夜、母を施設に置いて」を見つけました。詩ってこんなに素敵だったのだな・・と一気に読みました
今は療養型で入院している母も長く特養で生活していました。
どうしても深く落ちて考えこんでしまいがちですが、一歩引いての言葉の数々に、そうそう う・ウン と 出せなかった言葉を見つけたりしています。
胃漏にしたときには ムセテ嚥下が困難になっているのがきっかっけですが、勝手に母の命の長さを決めて良いのだろうか?、いや灯が消えるときには母は自分で決めるだろうと、勝手な意味を付けて、生きて欲しくて決めました。
ただ寝ているだけですが、母を通して見えてくることが未だ有ります。人と向き合いなさいと教えてくれています。傍にいるだけで幸せ感を感じたり、初めて経験することがあります。
子供の私に教えてくれています。
胃漏になっても生きてくれている母の有りがたさに感謝しつつ、
注射の跡が痛々しく、
「もう無理しなくて良いよ」・・。
「まだ生きて下さい、」と揺れる心を抱えながら、左手に本を開き右手に母の手を握りながら、折りたたみ椅子に腰かけています。
意味がまとまりませんが、藤川さんのブログが有ったのが嬉しくて投稿させていただきます
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