歩くということ
「私でなくても」
歩く
母はいつまでも歩く
左手は私の手をしっかり握って
右手では手すりをなぜながら
母は歩く
ホームの中を
ぐるぐると歩き回る
私も一緒にぐるぐると…
時には
私とつないだ手を
はずして指をしゃぶり
指をかみ
まだまだ右手は手すりをなぜながら
ぐるぐるぐるぐる
ただ前を向いて
いつもと変わらない方法で
床のこの模様には
足をそろえて立ち止まり
壁(かべ)のこの絵には
きちんと触って挨拶をし
また歩き始める…
終(しま)いには私が音(ね)を上げて
無理矢理に座らせると
私の右手を
自分の左手で
私の左手を
自分の右手で
しっかり握って
私を見つめ
私が視線をずらすと
母はさっと
左手を口に運びかみ始め
私が立ち上がろうとすると
口から手を離し
焦(あせ)ったように私の両手を
握りしめ
行っちゃだめなんだよと
よだれで濡れた手で握りしめ
私じゃなきゃだめなんだ
と思って母を見つめていると
急に立ち上がって
歩き出し
歩き出して
疲れた私を捨てて
歩いて歩いて
何処へ急いでいるんだい
ふと見ると
いつの間にか
誰かに手を引かれ
私の時と同じように
手すりをなぜながら
歩いていて
私でなくてもよかったのか
そんな私の気持ちはポイと捨てて
母は黙々と歩き
同じ場所をぐるぐると歩き続ける
『マザー』(ポプラ社)
母という海
「静かな長い夜」
母に優しい言葉をかけても
ありがとうとも言わない。
ましてやいい息子だと
誰かに自慢するわけでもなく
ただにこりともしないで私を見つめる。
二時間もかかる母の食事に
苛立つ私を尻目に
母は静かに宙を見つめ
ゆっくりと食事をする。
「本当はこんなことしてる間に
仕事したいんだよ」
母のウンコの臭いに
うんざりしている私の顔を
母は静かに見つめている。
「こんな臭いをなんで
おれがかがなくちゃなんないんだ」
「お母さんはよく分かっているんだよ」
と他人(ひと)は言ってくれるけれど
何にも分かっちゃいないと思う。
*
夜、母から離れて独りぼっちになる。
私は母という凪(な)いだ海に映る自分の姿を
じっと見つめる。
人の目がなかったら
私はこんなに親身になって
母の世話をするのだろうか?
せめて私が母の側にいることを
母に分かっていてもらいたいと
ひたすら願う静かな長い夜が私にはある。
『ライスカレーと母と海』(ポプラ社)に関連文
「聞く」ということ
「さびしい言葉」
ある病院で母と同室だったばあちゃんは
母と同じくらい認知症が進んでいた。
母とちがうのは言葉が話せること。
看護師さんが来ると必ず
「お願いします死なせてください」なのだ。
看護師さんが母の世話をしているときも
背中越しに
「お願いします死なせてください」
時には私に向かって
「お願いします死なせてください」
また時には認知症の母に向かって
「お願いします死なせてください」
「さびしい言葉ね それはできないのですよ」
看護師さんが言うと
「いやできるはず 死なせてください」
*
ある日「死なせてください」を
繰り返すばあちゃんに
「息がきついのよね」
看護師さんが優しく言うと
「はいきついんです死なせてください」
「さびしいのよね」
「はいさびしいんです死なせてください」
その日はそれからばあちゃんは
ひとことも喋らず安心したように眠った。
そしてその日もばあちゃんの所へは
誰も見舞いには来なかった。
これで一ヶ月にもなるらしい。
*
「死なせてください」
というばあちゃんの願いは
今日もかなえられなかった。
夜静まりかえった病棟。
私の頭の中でめぐり続けるばあちゃんの声。
本当の願いは
「さびしいのです
誰か一緒にいてください
生きていたいのです」
と私には
もっとさびしい言葉に聞こえるのだ。
『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規)
写真=藤川幸之助
スパゲッティ症候群の私
「臭い」
眠れず真夜中海へ行った。海の臭いが鼻を突いた。死んでいるのか生きているのか。明か暗か。不安なのか安心なのか。希望なのか絶望なのか。喜んでいるのか悲しんでいるのか。ゼロなのか無限なのか。愛なのか悪なのか。黒なのか透明なのか。…真夜中の海はそんな臭いがした。
翌日、母の胃に穴を開けた。母に無断で母の胃に穴を開けた。そこから直接胃へ食事を入れるために。この管の奥には、母の胃の中の暗闇が、真夜中の海のように広がっているにちがいない。母がしっかりと私の手を握って離さない。今日から母の意志とは関係なく母は生かされていく。味わうこともなく、噛むこともなく、飲み込むこともない自分が、なぜ生きているか?そんな疑問も母にはわくはずもなく。
「母さん手術ご苦労さん。今日から元気になって元に戻るぞ。」顔を寄せて自分で自分を励ますように母に声をかける。「何言ってんだ」と母がゴポッとゲップをした。口から臭う独特の臭い…。真夜中の海の臭いがした。
写真=藤川幸之助