認知症を知悉する
布切れ
ビールを買って車に戻ってみたら
母はいなかった。
酒屋の人も一緒になって探してくれた。
見知らぬ人も一緒になって
自分のお母さんでもないのに
みんな大声で「お母さん」と叫びながら。
母は酒屋の裏の
ビールの空き瓶の山の向こう側に
隠れるように座っていた。
その夜父は母をきつくしかりつけた。
母は困った顔をした。
私は優しく抱きしめた。
母は安堵した顔をした。
と すぐにうろうろと
またどこへともなく歩きだす。
「こんな夜中母さんどこへ行くんだ」
私が母をつかまえると
父は母のはいていたズボンをサッと脱がし
名前と住所と電話番号を書いた布切れを
手際よく縫いつけはじめた。
母はそれでもどこかへ行こうとする。
「母さんそんな格好でどこへ行くつもりだ」
大きなオムツ丸出しの
アヒルのような母をつかまえて私は笑った。
母もいっしょに笑っていた。
どこへも行かないようにと
布切れを縫いつけた父は死に
どこか遠いところへ行ってしまったけれど
母は歩けなくなった今も
その布切れのついたズボンをはいて
ベッドに横になって私の側にいる。
この頃、認知症の母の介護のことでテレビに出演したり、新聞などに顔写真が掲載されるものだから、外出先で話しかけられることが多くなった。先日も、同世代の男性が私に話しかけてきた。「頑張ってらっしゃいますね」と。母の介護のことだろうと思っていたら、どうも私が認知症を患っていると勘違いしているらしい。「頑張ってくださいね。同じ病気の人の励ましになりますよ。」と、私を励まして立ち去っていった。認知症という病気も、多くの人に知ってもらえるようになったなあと思った。認知症が知悉(ちしつ)されるようになったと嬉しかった。
わざわざ「知悉」という言葉を使ったのには訳がある。「知悉」というのは、細かい点まで詳しくよく知るということ。私と母を取り違えていたにしても、彼は認知症という病気を知っていただけでなく、その病気を患った「人そのもの」をテレビか新聞で知っていたのだ。母のことを温かく見守ってくれる人がいるようで、私はとても嬉しかった。 しかし、こんなこともあった。先日ラジオを聞いていると、ラジオのパーソナリティーが言葉をど忘れした時、「わたし、アルツハイマーになったのかなあ?」と冗談めかして笑うと、その周りの人たちは大爆笑だった。また、テレビを見ていた時のこと。ある女優のコメンテーターが言葉をど忘れして、「瞬間アルツになったかしら」と笑った。これが、エイズだったらどうだろうと思った。このラジオのパーソナリティーも、女優のコメンテーターも、新聞や週刊誌にたたかれて、当分の間メディアには出てこられないだろう。どちらの発言も、アルツハイマーを、ただのど忘れや物忘れだと思っての発言だ。ただ、彼らは知識としてアルツハイマー型認知症を知っているだけなのだ。認知症を知悉してはいない。
私の母をはじめ、認知症という病気を患っている人は、何もかも忘れて何か呑気そうに見える時もあるので、茶化してそう言ってしまう人がいるのかもしれない。しかし、「アルツハイマー型認知症」は、れっきとした病気。その病気の後ろには、その病気を患っている人の無念さ、悲しさ、忘れてしまう恐怖、怒りがあり、それを支える家族の辛さ、悲しさ、むなしさ、いらだちがある。その病気と向き合いその病気を克服しようとしている人がいる。この病気を生き抜こうと精一杯生き続けている多くの人たちがいるのだ。その上、アルツハイマー型認知症を患った人自らは、その嘲(あざけ)りに反論さえできないことが多いのだ。その人たちのことを、詳しくイメージすることができないので、このような発言を不用意にしてしまうのだろう。
「知悉」の「悉」は、「釆」と「心」からなる。「釆」は細かく分けること。つまり、細かく分けた隅々に、心を配ること。病気を知悉するとは、ただ病気を知ることではなく、病気の人やその心、それを支える家族やその心などの隅々に心を届かせ病気を知ること。つまり、病気を通して人を知り、人を通して病気を更に深く知ることだと思う。病気の症状を知り、その人を知れば知るだけ、その病気のことが更にはっきりと見えてもくるものだと思うのだ。
今日の詩「布切れ」の中の母を探す場面。父母が住む家の近くのスーパーの隣の酒屋でのこと。一緒に探してくれた酒屋の人も見知らぬ人も、私にとって見知らぬ人であったが、父のことも、母のこともよく知っていた。そして、母の病気のことも、父がそれを支えていることもよく知っていた。一緒に探してくれた人たちは、父母を通してアルツハイマー型認知症という病気を知悉していたのだ。この経験から、私は認知症の母のことや、その認知症の母を支えた父こと、母の心や父の心の隅々を講演で話すようになった。そして、それを感じてもらうことでこそ、アルツハイマー型認知症への理解は深まっていくと思うようになった。病気を知悉するとは、ただ単に病気を知ることではなく、人そのものや人の心をも深く知ることに他ならないのだ。病気を患った人やその人の心の機微にイメージが広がらずして、その病名を安易に語るなかれ。
◆Rikoさん、ブログの感想ありがとうございます。「地方紙で初めて、藤川氏の記事を目にしました。その縁で、このブログに辿り着きました。」と、Rikoさん。地方紙で私の記事ということは、共同通信社からの配信。配信された私の記事の新聞は、共同通信社から送ってきました。「伊勢新聞」「山梨日々新聞」「中国新聞」「神奈川新聞」「新潟新聞」「日本海新聞」「河北新聞」など二十数紙に配信されたとのこと。Rikoさんは何県の方だろうと思いながら、送られてきた新聞を読みました。私の記事はどれもだいたい同じですが、掲載紙の地方色豊かな他の記事を読むと、いろんな所を旅した気分になりました。
◆たっちゃんさん、感想ありがとうございます。「講演会で聞いた歌声は、「まだ聴いていたい!」と思えるほど穏やかで甘い声の響きでした。」と、たっちゃんさん。ほめられるのは嬉しいですね。高校の時は、バンドをやっていました。ボーカルでした。ビートルズやオフコース、チューリップの曲をやっていました。本当のこというと、詩人なんかよりミュージシャンがいいなあと今でも憧れています。ちなみに、私はある小学校の校歌を作詞作曲しています。そこの小学校の子ども達は、作詞作曲の「幸之助」という名前を見て、私のことをお爺さんか死んだ人だと思っていると思います。
◆還暦姉ちゃんさん、感想ありがとうございます。「6月の藤川さんの【支える側~~の詩】見損なった~と新聞をひっくり返しやっと見つけ、読み返し毎回ながら心の中をえぐらています。」と、還暦姉ちゃんさん。この文から見ると、長崎の方だと思います。この長崎新聞の連載は、この7月で、4年目に入ります。生まれて4年も続いているのは、ご飯を食べることと息をすることと、長崎新聞の連載ぐらいだと思います。還暦姉ちゃんさんが、楽しみにしてくださる限り、書き続けたいと思いますが、これも新聞社の都合もありますので、書かせてもらえる間は還暦姉ちゃんさんが喜んでいただけるように精いっぱい書いていこうと思います。
コメント
前回私の初めての投稿に、丁寧な藤川さんのお返答嬉しく思います。今回の【布切れ】にはとても思い出があります。長崎新聞の掲載時丁度私のつたない愚文も同時掲載で横に載っていたから良く覚えています。私も認知症の母を看取り中でしたから。今は亡夫の両親と同居し義父は、認知症を患っています。まだ何とか生活動作は一人で可能ですが、心の中がどうなっているのか察しかねる事が多く、徐々に自分が嫌になる事を言ってしまう時があります。そんな時藤川さんの【詩】を読むと心が落ち着きます。患っていながらも、母は時には娘を思いやる言葉が出て来たり、子どもみたいな事を言ったり、辛いことばかりではなかった~と思い返しています。まだ私は(知悉)迄に至ってないようですが、少し近づけるようになりたいものです。
藤川さんの介護の真髄が「認知症を知悉する」と言う言葉で、少し見えて来た様に感じました。ナースは病気を通して患者さんを知ります。そこまでは新人でも出来ます。その後にその患者さんを通して病気を更に深く知ることが出来ると看護する事が楽しくなります。と同時に悩んだり限界を感じたりします。病気の症状を知り、その患者さんを知れば知るだけその病気のことが更にはっきりと見えてもくるのです。病気と患者さん、患者さんを取り巻く家族や環境、置かれている状況等ナースが関わることが出来る事は沢山あります。
藤川さんがなぜ、現在の多岐にわたる活動をされているのか、なにを感じ取って欲しいのか、ナースだから分かるのではなく、一人の人間として愛する家族がある身として学び取り考えていかなければイケナイ状況にまで来ていると現場を見ていて感じています。今回の詩、ブログでのお話は考えるきっかけとなりました。ありがとうございます。
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