認知症にも消すことのできないもの
「化粧」
あの日、母の顔は真っ白だった。
口紅と引いたまゆずみが
まるでピエロだった。
私の吹き出しそうな顔を見て
「こんなに病気になっても
化粧だけは忘れんでしっかりするとよ」
父が真顔で言った。
自分ではどうにも止められない
変わっていく心の姿を
母は化粧の下に隠そうとしたのか。
厚い化粧でごまかそうとしたのか。
それにしても
隠すものが山積みだったのだろう
真っ白けのピエロだった。
その日以来
父が母の化粧品を買い、
父が母に化粧をした。
薬局の人に聞いたというメモを見ながら
父が母の顔に化粧をした。
真っ白けに真っ赤な口紅
ピエロのままの母だったけれど
母の顔に化粧をする父の姿が
四十年連れ添った二人の思い出を
大切に描いているようにも見えた。
父が死んで
私は母の化粧はしないけれど
唇が乾かないように
リップクリームだけは母の唇にぬる。
その時きまって母は
口紅をぬるときのように
唇を内側に入れ
鏡をのぞくように
私の顔を見つめる。
--もういいんだよ母さん。
父は母との日課表を紙に書いて、家の壁に貼っていた。そして、それにあわせて母との日々を淡々と過ごした。朝起きて二人で布団をたたみ、二人で並んで歯を磨き、二人で朝食の準備と片付け。その後、二人で唱歌を歌い、終わるとじゃんけんをした。記憶を維持するための父からのいろんな質問の時間もあった。あなたの名前は何ですか? あなたのご主人の名前は何ですか? 今日は何月何日ですか? と。昼食がすんだら、家の周りを二人で散歩。散歩が終わると、夕食の準備…。綿密に決められた日課表にあわせて、一日一日を大切に父と母は暮らしていた。
詩「化粧」は、その時の様子を書いたもの。母は父に化粧をされて、とても嬉しそうな笑顔をいつも見せていた。母にはかわいそうなほど変な化粧だったが、化粧をする父も化粧される母もとても楽しそうだった。一日で母がとても喜ぶ時間が、もう一つあった。唱歌を歌うときだ。唱歌「旅愁」を毎日二人で歌っていた。一番は下手な父の大正琴に合わせて母が歌い、二番は二人で声を合わせて歌っていた。楽しいものだから、母が私の手を嬉しそうに握ってくるのに、私はその頃ビートルズやTOTO、エルトンジョンなどの洋楽に気触(かぶ)れていて、唱歌なんか一緒に歌えるかと、ヘッドホンを付けて二人の歌声を聞きもしなかった。今になってみれば、ギターでコードでも弾いてやればよかったと後悔しきりだ。
高等女学校に通っていた母は、音楽が得意だった。母がフルート吹いているところを一度も見たことはなかったが、女学生の母がフルートを吹いている写真を見せられながら、音楽大学に行きたかった話を幼い頃何度も何度も聞かされた。認知症になっても、音楽の好きな母にとってはとても楽しい一時だったことは間違いない。
1更けゆく秋の夜
旅の空の
わびしき思ひに
ひとりなやむ
恋しやふるさと
なつかし父母
夢路にたどるは
故郷の家路
2窓うつ嵐に
夢もやぶれ
遙けき彼方に
こころ運ぶ
恋しやふるさと
なつかし父母
思いに浮かぶは
森のこずえ
この唱歌「旅愁」は、オードウェイの曲に人吉出身の犬童球渓(いんどうきゅうけい)が歌詞をつけた歌。父母は、この人吉の町の近くに住んでいた。地元の歌として、二人で歌っていたというわけだ。「犬童」という名字は、熊本県の人吉球磨に多い名字。「球渓」は、球磨川の渓谷とか渓流という意味のペンネームだ。林芙美子の『放浪記』の最初の場面に出てくるのもこの歌。この『放浪記』は1930年に単行本として出版されベストセラーになったというから、「旅愁」は人吉の歌というより、『放浪記』の歌として全国的に有名になった歌だ。ご高齢の方の多い講演会で、この唱歌を歌うと会場全体で合唱になるのもうなずける。
アルツハイマー型認知症と母が診断されて21年、父が亡くなって12年になるが、この「旅愁」を父に似せて下手に歌うと、母はまだ大声を上げて喜ぶ。もう大脳には大きな空洞ができて、天井を焦点の合わない目で見つめている母には分かるはずもないと思うのだが、この歌を父の声まねをして下手に歌うときだけは、母は「ウォー」と声を上げるのだ。歌う前まではうとうとと寝ていた母が、目を大きく見開いて大声を上げる。父との楽しかった思い出や父の愛が、母の中には今でも美しい結晶となって残っているのだと思う。何でもかんでも消し去ってしまう認知症という病気にでも、消し去ることができないものがあるのだと、私は毎日毎日母にこの歌を歌いながら思うのだ。
唱歌「旅愁」の歌詞を書いた犬童球渓は、1905年に兵庫県内の旧制中学に音楽の教員として赴任した。1905年というと、日露戦争が勃発した次の年。初めての授業で、球渓がオルガンを引きはじめると「西洋音楽は軟弱だ!」と何人もの生徒が叫び、床を踏みならし、あちこちからヤジが飛んだ。そのため、一年足らずで最初の赴任校をおわれ、新潟高等女学校へ。挫折感に打ちのめされ、人吉からもっと遠い新潟へ行って、遠く九州人吉を思いやり、この「旅愁」を作ったといわれている。私にとっても、遠く故郷を思いやる歌。二番の「恋しやふるさと/なつかし父母」と母に向かって歌うとき、楽しそうに二人仲良く歌っていた父と母の姿を思い出す。母の中に父が生き続けているように、私の中にも父は生き続けているのだ。母へ歌う私の声の中に、父はしっかりと生き続けているのだ。私は遠く父を思いやり、父の声でこの「旅愁」を毎日毎日歌う。
【参考文献】
『唱歌・童謡ものがたり』読売新聞文化部 岩波書店
『日本の唱歌』金田一春彦 講談社文庫
【参考サイト】http://www.d-score.com/cover.html
◆N子さん、書き込みありがとうございます。「エリザベスアーデンのコロンをつけ、髪をしばり、一呼吸してから勤務に入りますが、人様の迷惑にならないよう気をつけなければと…」と、N子さん。エリザベス・アーデンとは、このコロンの生みの親の名前ですよね。その名前の「アーデン」は、私の好きな詩人テニスンの物語詩『イーノック・アーデン』の中に出てくる船乗りの名前「イーノック・アーデン」から取って付けたと言われています。私の好きな詩人の詩の中に出てくる主人公の名前のコロン。私はかいだことがなく、他の人にどうかは分かりませんが、詩人の私にとっては迷惑になるどころか、すでに心地いい香りです。
コメント
こんばんは。
はじめましてです。m(__)m
地方紙で初めて、藤川氏の記事を目にしました。
その縁で、このブログに辿り着きました。
私は、介護初心者です。
今は、藤川氏のブログを読む度、涙がいっぱいになり、気持ちを文字にすることすら出来ません。
藤川氏のきれい事だけではすまされない本音、そして、経験した者にしかわからない弱さと強さ、そして優しさ。
立ち止まって考える機会を与えて下さり、ありがとうございます。
夫婦仲良く並んで歯磨きしたのは…新婚時代だけかな~?と、思い返していました。藤川さんのご両親は、本当に深い愛情で結ばれてると、今回の詩でも感じ取れました。その様子を誇らしく思える藤川さんも、また優しい男性だと思います。講演会で聞いた歌声は、「まだ聴いていたい!」
と思えるほど穏やかで甘い声の響きでした。お母様も、毎日夢心地で歌を聴き、お父さんと藤川さんの愛情に包まれ、精一杯生きている世界一幸せな女性だと思います。愛されるに値するだけの人生を送られて来たからこそ、今の幸せな時間があるのだろう…なんて思います。可愛い・綺麗な自慢のお母様ですね!
もう7月!ありゃ6月の藤川さんの【支える側~~の詩】見損なった~と新聞をひっくり返しやっと見つけ、読み返し毎回ながら心の中をえぐらています。思っていても中々文章に出来ずもやもやしています。読むたび(平成6年から)母の介護(軽い認知症)をしながら共感して時には新聞に投稿したりしていました。今回も新聞を切り取り早速ファイルしました。もう母は他界しましたが、義父が認知症気味で義母とギクシャクして、間に立つ私は藤川さんのご両親の心の絆、暖かいお父様の介護、藤川さんの想いに勇気づけられ「頑張ろかい」と後押ししてもらっています。いつまでも続ける限り【詩】お待ちしています
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