ナラティブ・アプローチ
「母の世界」
認知症の講演をした。
母のことを多くの人の前で話した。
認知症のおばあちゃんが座って聞いていた。
立って話を続ける私を見つめて
ずっと手招きをして
「立ってばかりでは大変
ここに来て座りなさい」
と、言っていた。
「私がそこに座ると
誰も話す人がいなくなるので
そこには行けないんですよ」
と言っても
おばあちゃんは手招きを続けた。
あまりにも続くので
話を中断して
私はおばあちゃんの横に座った。
おばあちゃんは優しく
私の背中をさすってくれた。
何度も何度もさすってくれた。
このおばあちゃんの頭の中だけに
広がるおばあちゃんの世界。
私に与え続けるおばあちゃんの愛情を
受け取ってあげるだけで
おばあちゃんの世界は
つじつまが合い完結する。
母にも母の世界があったに違いない。
母の頭の中の世界を私は
ことごとく否定し続けてきた。
「何を言ってるんだ。変なこと言うな」と。
母の世界を受け入れることができなかった。
自分の世界を誰にも分かってもらえないまま
母よ、あなたは
口を閉じ
目をつぶり
動かなくなってしまった。
正常と言われている
この私たちの世界がどれほどのものか。
こんなにも狂ってしまっているじゃないか。
母の世界からしか見えないものがある。
認知症の世界からしか聞こえない音がある。
おばあちゃんから離れて
私は講演を続けた。
もうおばあちゃんは
手招きすることはなかった。
そして、ニコニコして「息子」の話を
最後まで聞いていた。
のっけから、宣伝のようで気が引けるが、6月23日に拙著『この空っぽの手はきみのために空けてある』(PHP研究所)が発売される。人と人とのつながりを書いた。本の中の写真もいくつかを除いて私が撮った。私の住む長崎の海や空、街の写真だ。カメラを携えて、街を歩いた。カメラを向けると、すれ違う人すれ違う人そのカメラを向けた方を見る。何か事件でもあったのか?という目で。港で船にカメラを向けると、船の中から厳つい漁師然とした人が出てきて、「あんた警察の人ね? 何を調べよると」とにらまれた。カメラを向けるということは、向けられた者を緊張させ、向けられた方向に意味づけをする。撮りたいから撮っている自分が、無駄なことをしているように思えてならなかった。でも、カメラを持っているので、何をしているんだと聞かれることもなく、詩を書くときに比べ何か意味のあることをしているような気がして気楽だった。
気楽に2か月で千枚以上撮った。それだけ撮っても写真の腕はいっこうに上がらなかったが、写真を撮るのがとても楽しくなった。言葉を使わない分、写真は自分の心をそのまま表すことができる。美しいと思ってシャッターを切る。心が揺れた瞬間にシャッターを切る。理屈はいらない、ただ直感で自分を納得させる瞬間瞬間を切り取っていく。撮った写真を見ていると、1枚の写真にはその前と後ろに時間が流れているのに気がついた。その写真の瞬間に至るまでの時間とその写真の瞬間から辿るだろう時間だ。例えば、海辺を自転車で走る2人の少年の写真。その写真に至るまでの各々の少年の育った日々があり、その日々の中で二人の少年は出会い、今日の約束をしてこの写真にたどり着く。そして、この写真の後(あと)、この2人の少年は別れ、各々の家庭に帰り、それぞれの日々の生活の中で成長していく。そんな物語が、1枚の写真の後ろに隠れているのだ。そう思ってから、1枚の写真の後ろに隠れている物語を感じられるような写真を撮りたいと思うようになった。
撮りためた写真を見ながら、ナラティブ・アプローチ(narrative approach)という言葉を思い出した。ナラティブ(narrative)とは、「物語」「話」という意味。ナラティブ・アプローチとは、直訳すると「物語」による働きかけ。認知症の母へのナラティブ・アプローチとは次のようになると思う。認知症の母には、母の人生が物語としてあり、その物語を知り理解することを通して、母との共感を図っていこうとすること。母の認知症という病気や病気の原因を探り、診断を下し、処方をするというアプローチではない。つまり、病気を通して母を見るのではなく、母そのものを見つめていくこと。母の後ろに広がる人生を物語として読み解くことによって介護やケアを見つめなおす方法だ。1枚の写真の後ろに隠れている時間や物語を感じることとどこか似ている気がした。
母が徘徊していた頃の写真がある。日付を見ると、ちょうど父が亡くなった頃。母にとっては長年連れ添った連れあいが亡くなった頃なのだ。この写真の中の認知症の母に至るまで、母の人生があった。生まれ、青春を過ごし、父と愛し合い、兄や私を生み育て、父と人生を歩んできた母の人生が、この写真の後ろには広がっているのだ。私は、この母の物語など理解しようとしなかった。仕事が忙しくて、そんな気持ちの余裕なんてなかった。認知症という病気にばかりが気にかかって、徘徊をやめさせることばかり考えていた。父を捜しに、母と一緒に歩いたり、母に父との思い出話をしたりするどころか、徘徊をする母を叱っていた。自分が仕事ができないので。母の頭の中には、父との楽しかった物語が広がっていたに違いない。この写真を見ると、母の人生を理解しようとしなかった自分自身の姿もくっきりと見えてくる。一方で、認知症の母と歩みながら母を受け入れていった日々もまたはっきりと思い出す。そして、認知症は母の人生の全てではなく、ほんの一部なのだと思えるこの今に、この写真はたどり着く。
◆たっちゃん、N子さん、感想ありがとうございます。写真をほめられるととても嬉しいです。写真を撮るときの方が、詩を書くときよりも楽しいのです。それは、言葉を使わないから。詩はあまりほめられたことはありませんが、写真はこの頃よくほめられます。気楽にやっているからでしょうか。たっちゃんの感想に、「空母」という言葉が出てきました。「空母」とは軍艦ですので、おどろおどろしい感じがしますが、よく見ると「空」の「母」。たっちゃんの文と重なって、とても優しい響きだなあと思いました。N子さん、お祖母さんが亡くなられておつらい日々だと思います。「私もこの景色を見てみたいと思いました。」とN子さん。長崎の外海というところの海の写真です。遠藤周作の小説『沈黙』の舞台になったところです。
◆藤川さん新刊のお知らせ
いままで、見えていなかったものを気づかせてくれる。
言葉の力を感じずにはおられない珠玉の詩集。
言葉があなたの人生に寄り添います。
『この手の空っぽはきみのために空けてある』
発行=PHP研究所 発売日=6月23日
価格=¥1,470(税込)
ISBN=9784569709697
コメント
欠かさず拝見しています。毎回思うのですが、詩の後に書かれているコメントもとても参考になるうえ、胸に深く染み込んでくるような温かさが感じられ、藤川さんの人柄からくるのかな?と思っています。私も初期の認知症と思われる(はっきりとした症状が継続して現れるわけではないので、このような表現を使いました)両親への対応について藤川さんと同じようなジレンマなどなど感じています。わかってはいるつもりでも、両親の一言一言にイライラしたりして、後になって後悔することもしばしばです。ただ、藤川さんの本やこのブログでのコメントを読むと、自分だけではないんだなと、救われた気持ちになります。これからも、作品やこのブログ楽しみにしていますので、無理なさらず、息の長い活動を願っています。
母がなくなり、三回忌をおえた頃、現実を少しづつ受け入れることが出来始めました。その反面、もっと話をしておけばよかったという、後悔がどんどん大きくなってきたのです。もう少し話をしておけばよかったと。
そんな時読んだ『満月の夜、母を施設に置いて』は私の気持ちを軽くしてくれました。新刊を楽しみにしています。
後になって思い返すと、なぜそうなったか? 解かる瞬間がある。困難な状況の最中には冷静に事態を見つめることが出来ないし、周りの声も自分の心の中に響かない。少しずつ歩き出して振り返ると自分が必死で歩いてきた足跡を見つけることが出来る。いつも神様は私達一人ひとりに課題を出してくれている。ほとんどが、今より1段踏ん張って乗り越えればクリア出来る内容だが、時に「なんで自分だけ…」と弱音を吐いてしまう。
そんな時、助けをくれる神様も居て、それに気が付くか付かないかで、その人の学び取れる内容の濃さに違いが出てくる。体験した人しか分からない事も沢山あるけど、助けてあげたいと思って近くで見守る温かい手や瞳があることに気づいて欲しい。今回の写真も素敵です。藤川さんの心が穏やかで飾ること無い自然のままで良い…そんな気持ちでシャッターを切られたのかな…なんて想像しながら眺めています。
いつも拝見しています。
以前にも投稿したことがあるものです。
詩を読んでクスッとしたりホロッとしたりしています。そうか~と勉強をさせて頂いています。
特にこの詩は介護を始めたころは喧嘩ばかりしていたのですが、ふっと母に合わせようと変えたら、母が落ち着いたのです。自分のペースを強制していたのです、以来 私も優しくなれる時間が増えました。コツを得た気がしました。
介護の大切な基本だと思っています。
でも介護を始めて悩む始知人に上手に説明ができません
そんな知人やブログ仲間に紹介をして良いでしょうか?私もつたないブログをしています。著作権の問題があるので、問題があれば即削除します
お手数をおかけしますがご連絡を頂ければ幸いです
http://blogs.yahoo.co.jp/kjgkx037/23687185.html
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