みんなの家
『給食センターの前は一方通行の道路で、しかも江ノ電の踏切を渡ってすぐ、道幅もそれほど広くなく、つまり車が駐停車しにくい場所にあります。この立地条件で配達の人達の何よりの頼みは二人の男性、HさんとTさんです。車の誘導、お弁当のコンテナの積み込み、最敬礼をして他の車に止まってもらうなど、密度の濃いお仕事を楽しげにこなしています。』
これは会報「べる通信」(1999年7月25日号)のお弁当配達特集の記事の一部です。
このHさんとは私の父で、当時79歳。火曜日のベルの会の「お弁当」と「ホームヘルプ」両方の利用者でした。
父は74歳で妻に先立たれた時、自分が地域のことなど何も知らずに過ごして来たと気づき、町内会の仕事を手伝うようになりました。
地域医療を志す診療所での高齢者会食サロンでの手伝いを経て、その後毎週火曜日午後3時、ベルの会が活動する給食センターに来るようになりました。配達の混雑時に交通整理をするためです。
これはもともと水曜日の配達係Tさんが「オーライ・オーライ」(当時の通称)したのが始まりで、とても具合がいいので、「火曜日も」と、父を引っ張り出したのでした。
利用会員でありながら、嬉しそうに「臨時」協力会員をする姿が記事の写真にありました。
次々にやって来る配達者とおしゃべりしては交通整理をして、任務が終われば母の生前から毎日二人で通っていた駅前のカフェでコーヒーを1杯。暑くても寒くても、それが父の火曜日でした。
支給された手当も「や、ありがたい、これでまたコーヒーが飲めます」と素直に受け取り、80歳になると「潮時だ」と引退して、本来の利用会員になりました。
その後しだいに衰えて、はじめは1人だったヘルパーがついに1週間に6人にもなり、最後まで住み慣れたわが家で暮らしたいという願いが、もはや困難になりました。
どのヘルパーにも「ありがとう、ご苦労様」と玄関で見送ることはできたのに、たった今の記憶が5分ともたずに「次はどうする?」がわからなくなり、不安に陥りました。
連日通っていた私もいよいよ困り果てて、市内のホームを探し回りました。しかしどれも「何か違う」のでした。
そんな時、車で30分ほどの「介護付き高齢者住宅」を勧められて見学しました。
郊外の住宅地に、芝生の庭がある様は、父の家にソックリでした。ご自身の母親を含めた4人の高齢者をみるのは主人のKさん、二人の若い息子たち、そして調理兼ヘルパーとして働く私の友人。
陽だまりのリビングは世話をする人・される人ではなく、8人みんなの家という感じで、「こんな形もありか」と驚きでした。
「昼食をご一緒に」と勧められて、突然のことに父は慌てたのか小皿のいちごをいきなり白いご飯にのせてしまい、私は笑えなくて戸惑いました。
でも「あらきれい! Hさんそれもありね」というKさんの言葉に、フワッと心がほぐれました。
父がその家の一員となり、「本当に良かったのか?」の問いを繰り返しながら初めてホームを訪ねたのは、6日後でした。
「やあ!来た、来た」
振り向いて手を上げた父は満面の笑顔。…と次の瞬間、スルスルと父の手が伸びて、向かい側に座っているTさんの頬に。「ほ~ら、お弁当つけてるぞ」とご飯粒を取ってあげたのです。
ひとりで暮らすことの厳しさや不安から解放されて、くつろぐ父がありました。
「ありがとう。気をつけて。またおいで」と玄関に出て来て、そこはもう父のわが家でした。
ゆとりをもって、また父とつき合えるのが嬉しく、私も安心して毎日を過ごしました。
自分も年老いて、こんなふうに暮らしてもいいな、と感じたこの家が、父にとっても「心地良い」という答えが見つかったのですから。
コメント
人生の終わり近くをどの様にサポートしてあげられるかと何時も考えながら遠くにいる高齢の親をサポートしている者です。とても心あたたまる参考になるお話ありがとうございました。
あの頃は、配達にやって来てもお弁当を乗せるとタッチ&ゴーですぐに飛びだして行ってました。きっと、こんな風にして下さっていたから、毎回無事に出発出来ていたのですね。お世話になりました。
あれから随分経って今は、抜け道と分かったドライバーがどけどけと言わんばかりにスピードを上げて走り、時には工事用の大型トラックまで通るようになりました。
道幅は変わっていません。そしてここは近くの小学校の通学路です。もう少し静かに走ってくれればと思います。
映画「おくりびと」を観てきました。主人公よりわき役の山崎努のユーモラスな存在感が気に入りました。それでもテーマは「死」をあつかっているので遠距離介護の母のこと、自分が生ていること、老いなど考えさせられました。
Hさんは私にとっても忘れられない方です。
未だお元気でオーライをして下さっていた時、私は配達をしていて時間が来るまで何時も、ご自分の“いい頃”だったんでしょうか…東シナ海に海賊が出て“戦った”話を楽しく聞かせて下さいました。そして“行ってらっしゃい”と見送って下さりそれが配達のスタートでした。懐かしいです。
お元気に交通整理をしてくださっていらした頃のH様のお姿を懐かしく、走馬灯の様に駆け巡ります.柔和で笑みを絶やさず、周りの人々を暖かい雰囲気に包み込んでしまわれるお人柄でした。時が経ち最後はTさんのお父様に対する深い愛情で探された暮らし心地よい「みんなの家」に入居され、そちらでもニューファミリーに暖かい空気を運ばれたお父様。Tさんもしっかりその遺伝子受け継いでいらっしゃいますよ。
長い人生の最後に「心地良い」居場所を見つける事は本当に難しいです。(現実問題、医療行為が伴うと更に難しくなります)Tさんのお父さまはご自宅に居るような感じで「みんなの家」でお過ごしになれて良かったですね。父の事・母の事・そして私達の老後を改めて考えています。誰にとっても「心地良い」居場所が見つかると良いですね。
そうなのです。誰もが住みなれた我が家で最後まで自力でやっていきたいのですが、現実はなかなかそうもいきません。私が「ヘルパーを」と言っただけで義母は「私は、老人ホームなんか嫌です」と取り乱しました。誰のお世話にもなりたくなかったのは痛いほど分かります。ベルで活動する素晴らしい人達を知っていたから、父Hさんはヘルパーを受け入れ、やがてホームでも楽しく暮らせたのかも知れません。出会い、という言葉がありますが、Hさんは本当にこの出会いに恵まれたのだろうと感謝のほかありません。現在高齢の親御さんを看ておられる方達に、きっと良い道が与えられますように!
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