ベルの会会員の声~震災の記憶~
明治生まれの私は、明治を少しと大正、昭和、平成と四代にわたり生きて来ましたが、それは長いようでいて、短い年月だったと感じます。
その間に二つの大きなことがありました。一つは関東大震災に遭遇したこと、もう一つは第二次世界大戦に遭ったことです。
関東大震災は私が女学校2年生の夏でした。父の勤務の関係で千葉県船橋から東京新宿の第五高女に汽車通学をしていた私は、2学期の始業式を終えて家に帰る途次、両国駅の改札口に立っていた時、あの大地震に遭ったのです。
駅前広場に飛び出して、激しい揺れに地面にへたり込んだまま、私には自分がどうしてよいか全くわからずただ呆然としていました。
そのうちに、あちこちから火の手が上がり始めました。船橋の郵便局長さんと名乗る方が声をかけてくださり、早く逃げないと危ないとのこと。
局長さんに従って、火の迫っている隅田川沿いに向島方面に行きましたが、吾妻橋まで来ると向島方面から逃げてくる人に押し戻されて、ようやく吾妻橋を渡って上野方面に出ることができました。
火災のために起こったつむじ風で火のついた木片が頭上に飛んで来るし、市電は線路の上で燃えており、けがをした人が肉親を求めて狂ったように右往左往していました。
私たちはやっと上野の裏の千駄木町に逃げ延び、辺りの住民が持ち出した戸板を敷いた線路上に休ませてもらいました。空が真っ赤でした。
夜中に他県から軍隊が救済に入って来たときには、ほんとうに嬉しかったです。そこで一晩明かしたわけですが、朝から何も食べていないことなど考える暇もなかったので、夜明けに青年団の炊き出しのおむすびをもらったとき、やっと人心地がつきました。
局長さんは先に帰って家族に無事を伝えてあげると言ってくださり、そこで別れました。
私は焼け跡を通って船橋まで徒歩で帰ったのですが、真っ黒こげの西瓜がゴロゴロころがっていたのや、長い鉄橋を、板一枚をつたって渡ったことなど今でも忘れることができません。
小岩あたりで親切な御家に招ぜられ、お昼の御飯を御馳走になりました。
夕方やっと家に帰りつきましたが、14歳の少女には大変な経験でした。
空襲の時の経験は、もう皆様よくご存じのことと思いますが、私は3月10日の東京空襲以来岡山に疎開して、何事もお国のためお国のためと思って野良仕事の手伝いに一生懸命でした。
終戦と同時に、三児を連れて夫の探してくれた現在の鎌倉の家に引揚げて来たのです。もちろん東京の家は焼失したし、検事という職業柄、闇買いもままならず、戦後の生活は誠に厳しいものでした。
しかし、このような体験をして来た私は、もうどんな困難な事態が起ろうとも決して恐れることはないと思っております。
雛の日のやさしき人の配り膳
コメント
義母は震災の日が誕生日。 地震で混乱していたので、役所への届けは大分あとからしたそうです。それは大変なお産だったことでしょう。その時14歳!! ということは、この方は99歳!!
戦前、戦中、戦後。 明治、大正、昭和、平成。
勿論ベルの会も初めからの利用会員ですが、生きる歴史という存在です。 そしてこの一句、素晴らしい感性です。超高貴高齢者、乾杯!
母は生きていれば110歳近く。関東大震災でその母と妹を同時に失いました。その話は何回も聞かされたものです。私は小学校の低学年のころ、下校途中に何回か空襲にあいました。同じ電車に乗っていた大人の人たちが「早くこっちにいらっしゃい」と言って防空壕へ連れて行ってくれたのを覚えています。今も、人々は子供にこんなに親切にしてくれるでしょうか。日本人はまだまだ大丈夫と信じたいのです。
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