T子さんとの思い出
私がベルの会にかかわったのは、1999年6月、妹のピンチヒッターとして、T子さんの見守りを引き継いだときからです。
ご長女と一緒にちょっとお洒落をして待っていらしたT子さんに、少々緊張してお目にかかりました。
母と同い年のT子さんは、私とも同じ酉年の5月生まれとわかり、何かと話が合いそう、これなら大丈夫と安心したのを思い出します。
週1回11時から3時間お伺いすることになりました。
T子さんは、お家中の雨戸を開け、私のスリッパを揃え、テーブルにランチョンマットを用意してお部屋の入り口まで出て待っていて下さいました。
1週間のご様子など伺いながら、居室のお掃除等をしてお茶を入れ、テーブルに向かい合い、お話を伺います。
ユニークなお父様のお話、北京での幸せな幼少時代の思い出、北京から一人で広島の女学校に入学され寄宿舎生活をされたこと、年齢の離れたご主人との出会い、そのほのぼのとした思い出、戦時色濃くなる大陸での生活等々、たくさんのお話を伺いました。
お昼をご一緒して、天気の良い日は杖を持ってゆっくりお散歩しました。
お庭の花、道ばたの野草、垣根越しに見えるご近所のお庭などを楽しまれました。
何回か入退院を繰り返され、だんだん体力・気力が弱くなりました。
お話も行ったり来たり、お父様とご主人が一緒になったり、北京が上海になったり、食事も細くなり、外気浴は車いす等、ご自分でできることが少なくなり、その度に悲しそうな顔をなさいました。
でも、T子さんの美しい日本語は本当に心地良く、ああこんな言葉遣いがあったんだと嬉しくなることも度々でした。
介護保険も導入され、週3回お伺いするようになっていました。
家内の移動は私の腕につかまり、アンヨは上手のように歩きました。私の腕が「プヨプヨと柔らかく気持ちが良い」と笑われました。
いつも身奇麗にちょっとお洒落をして、静かに話をすること、できるだけ楽しい話題を選ぶことなど、T子さんから学んだことは今もヘルパーの仕事をする時に気をつけています。
2002年5月9日入院中の見守りをご家族の方と交代するため、少し早めに病院に行きました。
血圧が下がってICUのベッドにいらっしゃいました。
「プヨプヨのIです」と申し上げると、ニコッと笑ってくださいました。
「少しお休みなさいませ」と、お布団の上から軽くトントンしているうちに静かに目をつぶられました。
落ち着かれたのかなと思っているうちに呼吸が止まり、「御臨終です」と言われました。本当に静かなお別れでした。
T子さんとの3年がなかったら、ヘルパーを続けている私はいないでしょう。
T子さん、本当にありがとうございました。
コメント
ある開業医が診療所の二階に小さなサロンを作り、お昼の軽食とお喋りの場を設けられ、素敵なお年寄りが集まってなかなかの賑わいでした。T子さんのお姿もありました。父も楽しく参加しておりました。何のご縁かIヘルパーはその後父の晩年を支える心強い味方となって下さいました。きっと父は今頃T子さんと「良い方だったですなあ」と話し合っていることでしょう。感謝を込めて・・・
私の母T子さんはお世話下さったIさんに全幅の信頼を寄せて居りました。Iさんの暖かいお人柄に私たちもどんなにか助けられ勇気づけられたことでしょう。介護はあるときは永久に続くように思われます。家族だけではどうにもならない気持ちになったときIさんはいつも救いの手をさしのべて下さいました。母は常日頃自分の人生は幸せだったと話していました。母にとっても私たち娘たちにとってもIさんとの出会いは宝物でした。今なお、たくさんの愛でヘルパーを続けていらっしゃるIさんに改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
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