ベルの会会員の声~今、忘れてはならないこと~
ベルの会では利用会員はもちろん、協力会員のなかにも、先の第二次世界大戦を経験した方があります。
明治の気配を漂わせるお弁当利用者と、そのお弁当の配達の要(かなめ)であった方、今は亡き懐かしいお二方それぞれの戦争への思いに、この時期、耳を傾けてみました。
以下は、『ベルの会 五周年記念誌』(1997年)に寄せていただいた原文の文章表現をそのまま掲載しますので、当時の世相に思いを馳せていただければと思います。
「馬の飼料以下の食物」◆田中義助
「人権」とか「万物の霊長」などと、いきり立って言う時代は「有り難い」時代なのである。
戦争はあっても、負けたことはない…と誇った日本人も、「大東亜戦争」で米国と戦って惨敗して身につづれをまとい、瀬戸内海で沈没した船から引揚げられた麩(フスマ)、それも既に海中に長らくつかっていたものなので腐敗していたが、今なら誰ももらわないし食いもしないものを、配給で料金を出して買って食べたものだ。
食べたはよいが、しばらくすると、腹から変なゲップが出たものだ。
子供らはオヤツなど口にも出来なかったが(闇で需(もと)める以外は)配給された飴玉か何かを、それも子供の多い家族に忘れた頃に一、二箇もらえるかどうか…といった程度。子供は「オヤツ」などとはおくびにも出さなかったが、ひどい目にたえた。親も子供を不憫に思った。
私は「牧師」であったし、率先垂範しなくてはならないが、初老の母も同居していたので電車で遠く「あげ(郊外の田舎のこと)」迄出向いて、一升程度のお米を買って帰ったりしたが、それは闇買いであった。帰途取締りの警官につかまったこともあった。一、二升、自家用に買ったものに迄街の警官の目が光った。
子供も、子供ながらに弁(わきま)えて無理は言わなかったが、「欲しがりません、勝つまでは…」で、辛抱、辛抱と我慢したものだ。こんな時代だと…子供らも時代を弁え協力するものです。
一個のむすびを分け合って食べたとか、遠く一日がかりで親しき方から食料を分けてもらいに行く我が家の子供を、親子が待ちわびて燈下に寄り合っている「あの日」をしのんで、今日のあり余る時代に、贅沢我ままにふくれ上がってはならないのではありませんでしょうか。…と考えるこの頃。(九十一歳の老牧師)
「ゼロからの出発」◆田中永俊
私の紐育(ニューヨーク)時代の愛犬の名がベル、定年後始めた会社の名がベル・エンタープライズ。そして今お世話になっているのがベルの会。よくよくベルには足を向けて寝られない気持ちです。
私は神戸の生まれ育ちですから、子供の時から宮城遥拝といえば東を向いて頭を下げるものと何となく体にしみこんでいました。ところが軍隊で連れて行かれた所が東満の国境、虎林です。なんと宮城遥拝は真南を向くのです。なるほど、地図で見ると東京は真南です。釜山から汽車で1週間、兵舎の外は一面の草原、その時は大変なところに来たなというのが実感でした。
それから凡(およ)そ五十年、復員した時神戸は全く平坦な焼野が原、コッペパンをかじりながら焼け跡整理をし、外貨獲得に世界中を走り回り、そして今の日本を造り上げたというのが私の世代の自負です。
しかし私の世代は全くのゼロからの出発で、それはそれだけのことです。私の前の世代は戦争でそれまでの蓄積を全て失い、なかには愛する人を失い、計り知れないマイナスからの再出発だったのです。長い人生、本当にご苦労様でした。
どうかこれからは毎日を楽しく、朝起きた時から笑いで始まるような日を過ごしていただけるようお祈りしています。
次は戦争にまつわるお話、こちらはもう長いことヘルパーがお訪ねしている利用者の方が、『ベル 15周年号』(2007年)に寄せられた文章です。
「戦後61年」◆山村サチ
戦争が終わって61年。戦争未亡人としての私の人生も、もう90年になろうとしています。
福岡のミッションの女学校を卒業した私は、自ら医院を開業した前途揚揚たる若き歯科医と結婚いたしました。
その後、男の子を授かり順風満帆、日々幸せな新婚生活をおくっておりました。しかし、時はまさに軍国主義のさ中、日本は他国への侵略を繰り返し、真珠湾攻撃にはじまり、太平洋戦争へと突入してゆきました。長男が10ヶ月になるかならない時、歯科医として順調な日々を過ごしていた夫に、突然召集令状が来ました。夫は陸軍に入隊し、後にビルマ戦線へと送られて行きました。
そして3年が過ぎた頃、戦地での夫の死亡通知が届きました。あの激しいビルマの戦いで、終戦後も夫の遺骨や遺品は、何一つ戻ってくる事はありませんでした。
戦後、幸いにも私は母校の女学校の図書館に司書として職を得られ、無事一粒種の息子を育てることが出来ました。戦争により、幼くして引き裂かれ、父親の顔すら覚えていない一人息子ももう64歳。大きな病気や怪我をすることもなく、幸せな結婚をし、娘2人にも恵まれました。
無事に仕事も勤め上げ、今嘱託で仕事を頼まれる傍ら、山梨の菜園で趣味の畑仕事にいそしんでおります。
私は今も時折、亡き夫が眠っているであろうその方角へ手を合わせ、拝礼しています。亡き夫とそして共に亡くなり、今でも故郷のお墓にも入れない英霊達に向けて。
靖国問題が取り沙汰されている今日、私はいつも思います。祈ることだけでいいのです。その魂はわが胸のうちにあるのです。いつも我が心の中にいる愛する人に手を合わせ、お祈りします。二度と戦争が起こりませんように。世界の人々が、二度とこのように悲しい目に遭うことがありませんようにと。
この平和な時代をくれた亡き夫にむけて、私は時々呟きます。内緒のお話をします。「私は立派に貴方の忘れ形見を育てましたよ。天国で見守っていて下さった貴方のお陰ですね。ありがとう。そして、もう少しの間私を見守っていてくださいね。貴方のそばに行ける日が来るその時まで…」
コメント
戦争を体験した方が少しずつ少なくなって行きます。語り継ぐことの大切さを改めて感じます。そして、大変なご苦労をされた高齢者の方が、切り捨てられることのないような制度が作られることを心から願います。
こんにちわ。いつも、楽しみに拝見しています。
・・・今回の記事は、拝読していて、自然と涙が滲みました。本当に、このような悲しい思いをする人がでないように、平和な日本(世界)でありたいと願わずにはいられません・・・。
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