周りは「行方不明」と大騒ぎ でも本人にとっては「自分の意思を行動にうつしただけ」のこと
認知症という状態にある自宅で一人暮らしの留蔵さん(仮名)は、毎日のように3時間ほど外に出かけるのだが、その留蔵さんが帰ってこないのだから、大騒ぎになった。
昼過ぎまでは確認できているのだが、その後の行動は、いつもの外出のため把握しきれていない。夜になっても、次の朝になっても帰ってこないのだ。
仲間たちは懸命の捜索活動を展開したが行方はつかめなかった。もちろん警察にも届けているが、音沙汰なし。
翌日からは捜索の応援者がかけつけ、集団で捜索を展開したが、その夜も発見されなかった。
仲間たちの悲壮感は計り知れないほどだったが、翌々日の朝、河川敷沿いで警察に保護されたと一方が入り、最悪の結果はまぬがれた。
留蔵さんの関係者にとって緊張の続いた2日間であったが、当の本人は警察が保護しようとすると「なんも悪いことなんかしてねエ」「あの男、いわしたる」と怒り、「自分はこの仕事(川の草刈り)を終えたら帰ろうと思っていたのに、余計なことしやがって…」てな感じである。
婆さんが施設から一人で外に出ると「脱走」なんてひどいことを言う人がいるが、本人にとっては「軟禁状態からの解放」であり、「離設」とか「離園」とか言うが「目的をもったふつうの外出」「嫌な場から離れ外に出た」ってことである。
留蔵さんが保護された時の言葉の意味は重く、認知症という状態にある人が日本の憲法下で「日本人」として生きていけるようにするには何が必要かを、改めて考えさせられてしまう。いや、もう何度も何年も考え続けている。
朝日新聞(1月12日付)の報道によると、認知症もしくはその疑いのある人の鉄道事故が、2012年までの8年間に149件起こり、115人が亡くなったとあった。
留蔵さんもそうだが、認知症の特徴は「いつ・どこで・どんなことが起こるかわからない状態になる」ことであり、移動能力があれば自分の意思を行動に移すことはできてもやり遂げられなくなるため、何が起こるかわからない範疇が限りなく広いということでもある。また、周りの人とズレが起こるということでもある。
留蔵さんの時もそうだったが、無銭乗車とか無銭飲食とか住居侵入といった「反社会的な行為を起こしてくれないかな。そうなれば発見されやすくなるしな」と願っている自分に悲しくなる。
留蔵さんの言っていることはもっともなことであり「自分の意思を行動にうつしただけ」のことで、他人から行方不明だなんて言われ、保護されるような筋合いのことではない。
でも留蔵さんを含めて認知症という状態にある人のことを考えるときに、「ふつうの状態ではない→自力ではふつうには生きられない→ふつうに生きられるように支援することが必要」と考えるのが真っ当なはずだが、今のこの国の現状は、「ふつうの状態ではない→ふつうじゃない暮らしは仕方がない」「ふつうに生きられるようにする仕組みがない→ふつうじゃない暮らしを強要するのは当然のこと」と考えている人たちが多く存在し、現に留蔵さんも、僕の仲間たちが手を差し伸べなければ、本人の意思に反して精神病院に強制的に入院させられていたのだ。
もしも留蔵さんが亡くなって発見されていたら、一生懸命ひととして本人の意思に添って応援しようとしている僕らは、その人たちから「そらみたことか」「人命をどう考えているのか」と非難されるだろう。
認知症という状態になってもひとりの日本人として、日本国憲法のもと等しく生きていけるようにできるのだろうか。
これは難しい課題であり、あまりに難しいため誰もが真正面から議論することを避けてきたように思う。
もうそろそろ、真正面から議論してもよいのではないだろうか。施設の玄関を施錠する・しないというような部分的な話ではなく「そもそも認知症という状態になったら憲法はいきとどかさなくてもよいのか」って議論である。
憲法の条文は「すべて国民は」「国民は」「何人も」と謳い、「認知症という状態になった者は除く」とは書いていないのだから。
追伸
遅くなってしまいました。申し訳ないです。
コメント
確かに。認知症という状態にない僕らも
日本国憲法によって守られているのに
認知症という状態にある人たちは
日本国憲法から守られないということは
おかしなこと、だと思います。
認知症だから、と差別意識を持っている専門職が
認知症という状態にある人だけど
と、言える専門職が増えることを願いたい。
今年の第一回目となるキャラバンメイト(某高校)に行ってきました。そこで生徒から出た一言「認知症になったら自殺するわ(笑い)
」思わず回答したのは「認知症になると自殺もできないんだよ」「自分の意思を行動に移せないんだよ」「自殺したくてもできないんだよ」と言ってしまいました。
もう何年もキャラバンメイトとして認知症について語ってきました。学童から老人クラブまで。改めて自分自身が認知症を人前で語ってよいのか?認知症を知らない人が私の話を聞いて認知症を理解する。何だか自問自答しています。
私の話を聞いて理解するという解釈は驕りかもしれません。年間で認知症状態にある人達が行方不明のまま忘れられている今日、認知症である前に生きている事の意味をもう一度考えて見なければ・・・。
「どんなことが起きるかわからない」ということの中には、事故に合い亡くなることもあり、それも、怪我をしたり亡くなるのは、認知症である本人ばかりではないだろうと考えることがあります。
(そんなときは、自分の気持ちもひるんでしまいます・・・)
道路に飛び出したその人を避けようとしたり、助けようとして、巻き込まれ犠牲になる人も、当然でてくるだろうなあと。
認知症と関係ないところでも、当事者と周囲が絡む事故は日常的に起きていますよね。でもその時、
事故が繰り返されないための策や仕組みを考える動きはあっても、人の生活や行動に制限がかかるということにはならないと思うんです。
認知症があれば、どうしても制限せざえるおえな
いこともあるとは思います。
一人でできると思っても、火の扱う場所では必ず職員がくっつくし
「認知症の人の生活に規制がかかることにならないように」そのために行動を制限したり、一人でできることを一人でさせないこともしているのが現実です。
人の生活に規制がかからないようにという理由で、制限をしている自分て??と考えてしまう場面も正直あります。具体的には一人で出歩くことなど。
もう少し枠を超えて話ししあえたらいいなと思います。
…尊厳を保持し、有する能力に応じ、自立した日常生活が営めるように…
ここに基づいて働けることにやっぱり職の誇りを感じ、辞められそうにありません。
「そうは言っても寝たきりの人に自立なんてできないし、机上の空論でしょ」
以前同じ介護職(ひっぱる側と思う)人に言われ、とてもショックでした。
いろんな考えがあるのはいいことだけど、同じ土台にのって語ることもできないと思うと、まだまだ遠いなと途方に暮れます。
私も、制度や仕組みをよく知るほうではないので、今少し関心を持ちテキスト見たりしています。
(公的機関から出ている)テキストの一部には、暴力・暴言、不潔行為、一人で出たがる、意味もなく、目的もなく、…などの言葉が認知症の人の症状として並んでいます。
何度読み返し、どの角度から考えても、やっぱりおかしいと私は思います。
周辺症状と言われているものについて、和田さんが疑問を投げていたと思いますが(正しくなかったらすみません)この部分は、絶対に、なあなあにしてはいけない気がします。
介護保険法で謳う誇りある目的にかけて!とんでもない職業にならないように…
勇気を持って(現状の専門職視点からみると、少しバカになって)おかしいと思うことは「おかしいと思う」といえるようにしたいです。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。