目的は手段を正当化させる
ホテルで夜中に映画を観るのが、僕のひとつの楽しみ。特に任侠映画が大好きなのだが、いろんな関係だろう、任侠映画はホント少なくなった。
任侠映画の中に日本人の文化が詰まっているし、仕事に生かせることやヒントがいっぱいあると思って見てきただけに残念でならない。
先日見たのは、古い戦争もの。ベトナム戦争を反戦的に描いた映画だったが、そこに登場する軍曹のセリフに「目的は手段を正当化させる」というのがあり、こころにとまった。
仙台「光のページェント」。確かに光は美しかったが…
一人暮らしの認知症という状態にあるおよねさん(仮名)。火の不始末が目につくようになり、隣人の人たちは気が気じゃない。
関わりのあるケアマネさんや役人に対して「危ないからどこか施設にでも入れてくれ」…。
認知症=何をしでかすかわからない=被害を被る=隔離する・自分の傍からいなくさせる。
隣人の側から考えれば理屈は間違っていないように思うが、隣人にとって安心できるようにする=およねさんを施設に放り込むというのは、目的のためなら手段は「およねさんの気持ちや意思はどうでもいい」ということにならないか。
グループホームに入居しているおはつさん(仮名)。依存的で動けるのに動こうとしない。
このままじゃ動けなくなり(廃用)、おはつさんにとって良くないと考えた職員が「ごはんづくりに参加しないとご飯がないよ」と言ったら動くようになった。
その言葉を聞いていた他の職員も、それで動き出したおはつさんを見て効果的だと考え、みんなが 同じような言葉をかけだした。そう、別の事業所の職員から「それって虐待じゃないか」と言われるまで。
職員は「おはつさんのためを思って使った言葉」というのだが、「動く動機になるなら脅し文句でも良い」ということにならないか。
行政の実地指導は、行政と事業者が共に市民にとって「よりよい事業」にするためにある。
真摯に行政の実地指導を受け、必要に応じて改善していくのは、公金を使って公的目的のために事業を営む者として当たり前のことである。
ところが行政の実地指導に一貫性があるとは限らず、ひどい時は真逆のことを同じ行政から言われたりすることもある。
行政の指導内容が変更になったときは、きちんと事業者にその旨を説明(周知徹底)し、「これまではこのように考えてきましたが、今後はこのようにしていきたい」と内容変更や内容追加について説明をするのも行政の仕事のはず。
よりよい事業にするためなら、自分たちの落ち度を認めることもなく、お上の権限だとばかりに事業者に一方通行的に指導だけをするっていうのは、お上は何をやっても許されると思っているのかと疑いたくなる。
これまでにも聞いた言葉ではあるが「目的のために手段を正当化する」のは身近によくあることだ。 しかも、誰にでもみられることとも思えるほど一般的なことではないかと思うが、「常に正当化してやしないか」を自問していかないと、平気で人を殺すような人間にされてしまうことを戦争映画は教えてくれた気がした。
つまり「酷いこと」をしでかすのは特別な人ではないということだ。肝に命じていきたい。
追伸
ダウンジャケットの下にトレーナーを着ていた。昼飯を食いにでかけるためトレーナーのチャックをして、ダウンのチャックをしてと、密封状態をつくって出かけようと思い、チャックをした。
僕の中では、トレーナーのチャックはできたので、次はダウンジャケットとばかりに、ダウンの右側の服地をもってチャックしようとするのに、相棒である左側の服地がないのだ???????????。
なんと、トレーナーのチャックをするときにトレーナー右側の相棒にダウンの左側のチャックを入れてしまったようで、しかもそれが何の違和感もなくハマったので、写真のような格好になってしまった。
こんなことが起こるんやね。よくぞチャックがハマったもんで。僕的には、新しいファッションって感じでokですがね。周りもなかなかステキですよって言ってくれてたしねハハハ
京都駅。コーヒー片手に見上げれば“クリスマス”でした
コメント
今晩は( ^ω^ )お久しぶりですm(_ _)m
和田さんのお話、当たり前の事やけど、この当たり前の感覚がなぜか出来てなくて、ハッとします。
正当化…そうですよね。正当化で物事決めてる事、たくさんあると思います。
人間としたら当たり前!?なんかもしれないですけど、何か汚いなって思ってしまいます。
そうゆう自分も、知らず知らず色んな事を正当化してるんやろーなぁ…と反省します。
ファスナーのファッション、イケてると思いますU^ェ^U
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