急げ!認知症対応型国家JAPAN
ついこのあいだ、厚生労働省の発表で認知症という状態にある人の推計数が発表され、いよいよ300万人を突破したと思いきや、先日発表された厚生労働省研究班の調査では、65歳以上ですでに462万人を突破していると。
かの筋から政府発表を上回る「350万人はいる」という数字を聞いてはいたが、まさか今の時点で「2025年470万人の予測値」に至っているとは驚きである。
また同調査で軽度認知障害(MCI)400万人という数字を併せて考えると、以前からずっと言ってきた「認知症対応型国家づくり」はいよいよ急務の課題だ。
もうそんなことを言い出して10年にはなるが、これは、原子力を使ったエネルギー政策をどうしていくか以上に緊急な、国民的大課題である。であるにもかかわらず、その流れは悠長であり過ぎやしないだろうか。
昨年4月の介護保険法改正で、第五条の二(認知症に関する調査研究の推進等)が条文化されたが、今頃になって調査研究を推進している場合ではなく、施策を講じなければ追いつけないだろう。
「和田くん、そんなことはわかってるよ」
そんな声が霞が関方面から聞こえてきそうだが、医療や介護をいじるだけではダメで、国民の人生観など根本的なところにまで投げかけ、人が生きること・それを支えることの限界点など、根本的なところの「おり合い点」を見出し、国民全体が「かくご」を以った社会づくりが急務ではないだろうか。
NHK「プロフェッショナル」を見てくれた人から「人手がない中で尊厳なんて無茶である」という批判的な批評をもらったが、僕もそのことには同感である。(違うのは、人手がないからこそ尊厳に挑むのが専門職だと思うところ)
まずは、その上に立って、国民がお互いに覚悟を持ちあい、どこまでそのことにお金を回すか・出すか、どこまでそのことに時間を割くか、そのことに具体的な行動として何をするか・何ができるかなど大枠を決めることが大事で、その整理の先に、これは「しょうがない」と誰もが合意せざるを得ない折り合い点に行きつけるはずである。
例えば、施錠。
今でも「自分の意思に基づいていない閉じ込めは絶対に許さない」なんて言う人は、突き詰めればいないだろう。
例えば、薬物。
今でも「認知症に対して薬物は絶対に使うべからず」なんて言う人は、突き詰めればいないだろう。
例えば、管理。
今でも「完全に本人の意思に基づく生活を支援するべきだ」なんて言う人に会ったことはない。もどきはいっぱいいるが。
例えば、他人への関心。
今でも「全く他人に無関心な社会でいい」なんて思っている人は突き詰めればいないだろう。
認知症になって、「認知症になる前の生活と同じ生活を最期まで続けられるように支援するべきだ」なんて思っている人や主張している人がいたとしても、その実現策を語れる人はいないだろう。
こうやって突き詰めて行けば、国民の誰もが「しょうがない」「これだけは」の折り合い点で物事を思考するようになるはずである。
その典型例が「禁煙分煙施策」で、この国の民の多くが「折り合い点がちゃんとわかる」ことを示したのではないか。
認知症対応型国家づくりは容易ではないが急務である。
まずは、認知症になることを前提に社会の枠組みと意識を備えていくことだ。
今こそ、知恵の総結集を! だね。
寄らば文殊の知恵
コメント
折り合いをつける。約¥10年前介護の仕事に付いたとき、話し合い(カンファレンス)をしましょうとなってはきたものの、未だ上席がいうことが決まりだと縛られている職員がいる。上席は絶対ではない。「どう思う」「ではどうしようか」と問いかけても考えない。「上が言ったから、言っても手もしょうがない」「現場を知らない」という声がある。この思考回路をまず崩さなければと思う。
少しずつではあるが、だれもが主体となり、自分たちで仕事環境の変革に取り組み、成果を積み重ねている。行政も感心を寄せくれている。施設周辺のおじさんもおばさんも、これからお世話になる施設だからと、良いことにも悪い出来事にも関心がある。そんな環境に今いることをステップにこれからも人が生きることを追求したい。
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