みじん切りがねぎまのネギに
この時期になるとノロウイルスやインフルエンザなど感染力の強い病も終息するが、嵐の後には傷跡が残るのも常。
こうした病がグループホームを席巻すると、保健所の指導などもあって、入居者による「食事作り」ができなくなる。
うちのグループホームや小規模多機能型居宅介護や認知症対応型デイサービスは、食事は支援側が考えて作った物を提供する「提供型」ではなく、入居者・利用者自身が献立を決め、食材を調達しに街の商店へ出かけ、買ってきたものを調理して食べるという「どこにでもある人の暮らしの姿」を維持・取り戻すことを支援する「自立型」だが、これがストップになり「提供型」にせざるを得なくなる。
これも致し方ないかなとは思うが、逆に言えばこの時が職員に「廃用」を感じさせ、「普段通りを続ける」ことの意味を投げかけてくれもする。
先日うちの職員と話していると「できていたことができなくなる」ことを実感した実例を語ってくれたが、そのグループホームでは感染力の強い病がダブルで起こり、約一ヵ月に亘り食事作りがストップ。その傷跡も大きかった。
その端的な例として、ある入居者が「ネギのみじん切りができていた」のに「ねぎまのネギの大きさにしか切れなくなっていた」というのだ。
長年にわたって「できていたこと」が、認知症になったことで自力では「できなくなり」、自宅では支援を受けにくいために「維持することも取り戻すこともできず」、支援のあるグループホーム等に入居して「できる姿を取り戻した」としても、支援がなく・機会を失うと元の黙阿弥で「できなくなる」ということだ。
それでも、「素からできない状態になった」わけではなく「使わないから使えない状態様になっているだけかもしれない」と考えることで、「使う機会を取り戻せばできる姿を取り戻すのではないか」と展開でき、再び「みじん切りのできる入居者」を描いて支援した結果、「やっぱりできない」となるか「やっぱりできた」となるかである。
この婆さんの場合は、みじん切りの上手な婆さんを取り戻すことができた。
同じような事例はいくらでもある。
「歩けないと聞かされた人に関わると歩けた」とか「喋れないと聞かされた人に関わると歌まで歌えた」とか、「口から飲食は無理だと聞かされていた人が自分で水を飲んだ」とか、医師も含めた専門職からの情報で「もう能力がない・無理」と聞かされていた人なのに「そうではなかった」などなど。
でも、その姿を取り戻させたのは僕に超能力があるからではなく、その人自身に能力があればこその話で、僕は単にその力を引き出したに過ぎず、それが僕の仕事であり、僕の仕事が悪けりゃ、その力を封じ込めてしまいかねないということだ。
嬉しかったのは、うちの職員が、入居者が久しぶりにネギを切ったとき「ねぎまのネギ」になってしまったことに哀しみを感じ、支援がないと「こうなってしまう」ことを目の当たりにして、日常生活の中で繰り返していくことがいかに大切なことかを実感し、再びそれを取り戻すために挑んで取り戻せたときの喜びを僕に語ってくれたこと、周りの者に語っていたことだ。
要介護状態にある人の「能力の廃用」はすぐに起こることを肝に銘じ、それと同じくらい「取り戻せるかもしれない」と、人の生きる力の凄さに信頼を置いて支援していきたいものである。
追伸
ゴールデンウイーク明けの恒例となりつつある奈良市のライブハウスを借り切っての「トークライブ」。
今年で3年目となり、お世話いただいている主催者の皆さんには、ただ感謝しかない。
今年の僕のお相手は、認知症介護研究研修東京センターの永田久美子さん。以前ブログで取り上げた「クリスマスパーティーでパンティーストッキングをかぶったことを以って虐待と言えるか」を含めて、どんなトークになることやら。
毎年、地元のバンドが演奏を聞かせてくれるが、今年は僕の業界の仲間が東京からやってきてくれる。また、国鉄時代の後輩も、僕の伴奏でお手伝いに来てくれる。これまたどんな話が飛び出るかわからないが、これも楽しみである。
主催者の皆さん、参加される皆さん、よろしく。です。
コメント
今年も奈良ライブよろしくお願いします!普段言葉に出せない(そのような雰囲気もおかしいですが)タブーな問題を鋭く切っていただければ嬉しいです。
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