人間関係相関図
ネットで「和田行男」を検索して開き見ると、困ったヤツらがいるのに行き当たった。
どこでどう情報収集しているかわからないが「和田行男の人脈=相関図」を勝手にのせているヤツがいたのだ(まだ掲載されているはず)。和田行男のことだけでなく、いろんな人をターゲットにして掲載している。
何を書かれても驚きも怒りもないが、嘘だけはやめてほしい。
和田行男の人間関係相関図なのに、和田行男=僕が知らない人間の名前が書かれてある。いい加減にしてもらいたい。
僕の知らない人を、まるで僕の関係者であるかのようにでっち上げられていることに呆れるばかり。
それなら行きつけの喫茶店のマスターやお好み焼き屋のおばちゃんを載せてほしいわ。
でも、それを見て思ったけど、僕の人間関係は狭いね。見て思っただけではなく、それをきっかけに改めて俯瞰して実感した。
以前は、工務店関係、車屋関係、弁護士、教職員など公務員、絵描きに写真家、保育関係者、鉄道関係者、水商売関係者、口に出せない関係者など、ホント幅広い人たちと関係をもって生きていたのに、今は圧倒的に福祉・医療関係者である。
でも何ら不自由はないし、窮屈でもない。いや、今の僕にとってありがたいことだ。この人たちがいてくれたからこそ・いるからこそ今の僕=和田行男が在る。
そんなことを思っていると、ふと「そういやうちのグループホームに暮らす婆さんはどうか」と懸念が出てきた。
人生80年も生きてきた婆さん達のことだから、幅広い人たちと関係をもって生きてきただろうが、今は比べ物にならないくらい狭く・少ない他人との関係の中で生きていることは間違いない。
それは致し方ないことだが、その中にあってなおどうなっているかだ。
うちの婆さんたちは、日常生活の中で地域社会とつながって生きていけるように支援を受けることを目指し実践しているから、市場の人々、美容院の人、喫茶店の人、寿司屋の人、近隣の人など、今まで知らなかった人々と関係をもつことができているはずなのだが、そこが落とし穴になっているかもしれない。
その方針があるから、うちの連中はみんなそれを実践していると思い込んでいるが、ひょっとしたら「ぞっとするほど他人との相関関係がない暮らしを最期の最期に送らせている」ことになっているかもしれない、一部を除いてそうなっているかもしれないと思い始めてきた。
毎日買い物に出かけていると思っていたら「電話で配達」で済ませていたなんていうことになっているやもしれないのだ。
そんなこと思ってみなかったが、思ってもみなかった事象がひとつでも起これば、いろんなことをきっかけに懸念がわく。わかなければ僕の所属する法人にとって僕が存在する意味がなくなる。それが僕が生きている意味でもある。
自分のことで怒りをもって見ていた相関図だが、相関図を婆さんひとり一人につくって、人としての生活支援の実践を検証してみたくなった。
うちの施設に「ぞっとするほど他人との関係がない暮らし」を送らされている婆さんがいたとしたら、僕のことにウソを連ねた記事よりもよっぽど「でっちあげのウソ」として、僕が僕に対して怒らねばならないことである。
コメント
毎日、新聞のお悔やみ欄で、今まで携わったご利用者さんの名前の有無を見ています。
相関図にすると、私からご利用者の方々への一方的な矢印になりますが…お悔やみ欄に名前が無いから元気とは限らないのですが、お名前が無いと元気でいらっしゃると思い、名前があった時は、穏やかな臨終であってほしいと思います。
以前、孤独死を迎えた方々に直面して、和田さんのブログを拝見して(タイトルは「死考」)、介護職員として、最期の時に立ち会うことにどう向き合うか、時々、看取りに携わることについて考えます。
高齢者の喪失感は人脈もそうですね。
社会的生き物である人間が社会とのつながりを持てない環境は、高齢者個々人が選択した結果ならともかく僕たち介護職が狭めているとしたら人権が守られてないだろうと思います。
だけど、徘徊して身の安全を確保できない状況の中で制限されることも致し方ないのかなとのジレンマもあります。
このバランス感覚が介護職がプロの前に人間としての価値観が試されるのかなとも思います。
P.S. クリスマスプレゼント楽しみに待っています。和田さんに関われることが楽しみです。ありがとうございます。
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