認知症ケア
「認知症介護実践者研修」という国が定めた研修会がある。
それに参加した人が、その研修の一環として行う現場実習のテーマに「グループホームにおける食事づくり支援」を設定したところ、研修を推進する指導者から「そのテーマは認知症ケアではない」と言われたそうで、和田さんはそれについてどう思うかという質問をメールでもらった。
以前にも同様の質問をもらったことがあり、ずっと気になっていることなので、これを機会に考えていることを述べてみたい。
そもそも「認知症ケア」というからには「認知症とは何か」を明らかにする必要がある。
以前からずっと言っているように、この国では「認知症とは」という定義が一本化されておらず、医師、学者、研究者、行政、僕のように前に立って喋る人間も含めてバラバラのことを言うのでわかりにくいが、和田なりにまとめると「原因疾患によって脳が器質的に変化をきたし、そのことによって知的能力が衰退し生活に支障をきたした状態」ということになる。
僕がこうしてまとめても、単なる介護福祉士なので、重みがないことは承知している。そこで、認知症の世界で名だたる医師や研究者に「僕は認知症についてこういうふうに語っているが間違いないか」と聞いてきたが、誰もが「間違ってはいない」と言ってくれているので、そのように語らせてもらっている。
だとしたら、認知症はそれそのものが病気ではなく病気からきた状態(病態)を指しており「認知症ケアとはその状態への支援」と言える。
他人と一緒に調理をするときの自分を描いてみて欲しい。
そのときの自分は、自分の脳力を駆使して自分の能力を調理という行為に反映させていくのだが、自分でできることを自分がするだけでなく、他人との関係性を見図りながら行動していないだろうか。
それは、脳が目や耳などから得た情報を解析したうえで自分の言動を組み立てているということで、自分を自分なりにその場面に瞬時に適応させているということではないか。
認知症というのは、この適応させていく源となる脳が病(原因となる疾患は70~100種あるといわれている)に侵されている状態で、その適応させる力を構成する基本的な脳の力・知的能力(記憶力、認知能力、遂行力など)が侵されている状態といえる。
僕が認知症になると、たとえ自分の能力を調理に反映させようという意思をもったとしても、意思どおりにうまく構成できなくなりトンチンカンなことをするだろう。また関係性を見図る能力が衰退して他人とズレが生じ、トラブルになるかもしれない。
脳が壊れていない今のようにはいかず、誰かに手助けしてもらわなければならなくなるだろう。
実際にグループホームの調理場面では、砂糖と塩を間違える、味噌汁用に準備した野菜が野菜炒めになってしまう、鍋に水もささずに火をつけてそのまま味噌を鍋にいれてしまう、調理の手順が違うと言い争いになるなど、支援者がちょっと目を離すと、個人の場面でも共同の場面でも、明らかに認知症に起因する事柄がいろいろ起こる。
これは調理に限らずで、食べている最中にさえ他人の物を自分の物と思って食べてしまい他人とトラブルになりかねないなど、あらゆる日常生活の場面で何が起こってもおかしくはないのだ。
そう考えると、メールをくれた人の「グループホームにおける食事づくり支援」は明確に「認知症ケア」と言えるのだが、指導者が「それは認知症ケアではない」と言った背景には何が潜んでいるのか、そこを考えてみたい。
認知症ではさきほど述べたように「日常生活に支障をきたしている状態」とは区別して考えたほうがよいと思えるもうひとつの状態が起こる。それが「認知症の原因疾患に起因する精神症状」であり、医療主導で引っ張られている認知症の世界は、これに対するケアについて語られることが多いのだ。
あわせて、脳が壊れているのだからそうなるのは当たり前と思われることも「周辺症状化」されて(最近言われ出したBPSDも含めて)、この中でひとくくりにして語られることが多い。
きっと研修会の指導者たちは、この図式にはまって「精神症状へのケアこそが認知症ケアである」と考えているのではないかと思う(これも医療に携わる者が認知症の世界を主導していることの弊害だと僕は思っているが)。また、「グループホームでなくても特養や精神病院でも認知症ケアはできる。」という言い方をする人がいるが、それはこの図式の反映ではないか。
精神症状へのケア=認知症ケアと考えれば、僕も「その通りだ」と言うが、認知症=精神症状ではなく、認知症=生活に支障をきたした状態であり、精神症状へのケアだけが認知症ケアではないのだ。
和田なりに簡単にまとめると、認知症ケアとは、(認知症=生活障害をきたす⇒日常生活行為への支援が必要)+(認知症の原因疾患=精神症状を伴う⇒精神症状へのケアが必要)+(認知症の原因疾患+認知症=精神状態の異変が起こりやすい⇒心のケアが必要)であり、これに認知症に起因しているとは言えないさまざまな状態(耳が聞こえない・足腰が弱ったなど身体機能の異常や衰退、誰にでもある喜怒哀楽・不安・混乱・嫉妬・性欲・物欲などなど)への支援がくっついて「人が生きていくことを支援する」ということになる。それが生活支援ではないか。
認知症介護実践者研修は、介護保険法の目的を推進する立場から、認知症という状態にある要介護者が『「尊厳を保持」し「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるようにする」(介護保険法の目的)』ことを達成させるための研修であり、決して「精神症状へのケア研修」ではないはずである。
間違っていればご指摘を。
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■10月30日(日)13:30~16:30 受付 13:00から
■神戸市立生田文化会館大ホール
■参加費 3000円
■定員 250名
■講演
・和田行男(「認知症ケアとは」という初のテーマで写真をたっぷり使ってやります)
■パネルディスカッション
・和田行男
・白仁田敏史(長崎県㈲あんのん代表 元日本介護福祉士会副会長)
・林田俊弘(東京都NPOミニケアホームきみさんち代表 全国グループホーム団体連合会事務局長)
■主催
有限会社KYT グループホームいろり・グループホームはたつか
■問い合わせ
078-643-3456
担当 尾原・藤岡
コメント
ケアという言葉自体が何だか医療的に聞こえる。この言葉が嫌いな訳では無いが、私は「お手伝い」と思って接しています。
その人が出来ない部分を出来る様にするためのお手伝い。やれば出来そうな事を「やってみよう」という気にさせるお手伝い。
前者は行動で後者は精神面のお手伝いだとすれば、どちらもケアだし、研修で精神面のケアの仕方なんて、事例は無限にあるから出来ませんよね。
行動なら、認知症の人に出やすい事例があると分かっているから、これから勉強しようという人に教えることは出来るのでは無いでしょうか?
どちらも無くてはならないケアですよね…。
お久しぶりです
認知症の研修と言うとすぐに「周辺症状」となってしまう事が多いのは自分も違和感を感じていました。
しかし、そもそも生活が安定していないからこそ周辺症状が出る事も多く、生活そのものの支援をもっと考えなければ、周辺症状の精神面だけ追及しても解決しない事だらけなのにと感じてしまいます。
認知症があっても「人」として生活できる事を応援できる介護職でありたいです
介護保険法の目的を仕事の根っこにすること、それがこの仕事の始まりだと思います。短い文章に多くのことが記されていると思います。
実践者研修などでもその部分の理解を促さず、ただ「その人」を尊重することを強調する講義だと、どうしても個別目標を立てるグループワークなどで「囲碁ができるようになる」という目標が模範になってしまい、研修に参加することで「帰宅願望」、その場にいる違和感から逃れることもできない不適応状態の実習(体感?)をすることに…そんな気がしました。
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