互助システム
3月11日の東日本大震災と原子力発電所事故勃発から半年が経った。
地震の発生直後から友人・知人から資金を集めて数日間だけ福島の友人を窓口に支援にあたってきたが、その後ずっと状況報告をメールでもらうので、それを資金カンパしてくれた友人・知人たちに転送してきた。
直近のメールはこんな内容だった。
・八月末で震災の避難所を解散したのに、このたびの豪雨でまた避難所開設です。なんともはや…
・仮設住宅の生活は、隣近所の距離が近づいて、醤油や味噌を借りたり、縁側で一緒におしゃべりしたり、リヤカーで物売りが来たり、ひと昔前の生活に戻ったみたいです。
・お年寄りたちは、認知症があっても、この生活にはとても馴染みがあり得意の生活だから生き生きしていると、地域包括支援センターの職員から感想を聞きました。
・補償金や義援金は世帯主に入るので、一家の主おじいちゃんの復権です。息子さんの仕事がなくなって生活費はおじいちゃんから貰うって感じですから…。
・生活が少しずつ動き出したこの頃ですが、支援に入っている私たちのほうに疲れがみえはじめてきました。私も、自分ができなかったことばかりで後悔と無力感を噛みしめてしまいます。
・見えない放射線が私たちの上にのっかかっていることを感じています。
僕には何にもできないけれど、風化させないお手伝いくらいはできるかな、いやそれもほんのちょっとでしかないだろうが、皆さんに発信し続けることで何かのお役に立てればと思う。
物質の豊かさはさまざまに人と人の関係性を薄めていると感じてきた僕にとって、必然の中から復活してきた「人と人の関係性のある暮らし(グループホームもそう)」に思いを馳せつつ、こんなときだけ光輝く現代日本かと思うと、とても哀しくなる。
前に新聞で読んだが、被災住民に設計士の人がいて、避難所で知り合って助け合いながら暮らしている者同士が、仮設住宅に移っても同じように生活ができるようにするため「こんな仮設住宅を建ててほしい」と提案したそうで、その設計は「まるでグループホーム」そっくりだった。
つまり、個別のプライベート空間とコミュニティ空間が同じ屋根の下にある仮設住宅である。
地域包括ケアなんていうむずかしい言葉に置き換わっているが、地域住民同士の互助がベースで、かつてあった互助システムを取り戻していこうということではないか。
ただ、いったん壊れたものを再構築するのが容易でないことは、数多くの災害が証明してくれている。記憶の中で風化してきた「あねは事件」の時も、マンションの住民同士の互助が深まったが、その後はどうなっていることやら。
災害に学ぶべきは、自助もそうだが、互助こそ学ぶべき点が多く、そういう観点からグループホームを俯瞰すると、このシステムの優位性がわかる。
ただし、その優位性も運営者次第であり、「共同生活介護」を理解し実践すればこそ互助システムが輝くのだ。
互助システムを機能させていくために、グループホームの事業者は事業者同士のつながりを強め深め、たがいに研鑽し合う互助システムを自主的に働かせている。
大いに実践し検証し合い、婆さん個別への支援だけでなく互助への支援(共同生活介護)を強め深めていこう。
コメント
お疲れ様です。
昨年の豪雨で心底怖いと感じた。
先日の豪雨・台風で、私は帰宅困難になった。家族・ペット・家を案じながら事業所で泊まることにし、結果的には自宅で暮らすじいさまばあさまの安全確保に当たった。
先日は、東北の震災にあわれた仲間から直接話を聞くことができた。涙が止まらず言葉も出なかった。よくみんな生きていてくれた、ありがとうとしか言えない。
普段、行政さんとはいい関係を作ってきたつもりだったが、この市民の命の危機に機能しないことがショックだった。
その道の先に私たちチームが支援しているじいさんがいる。地元住民や緊急車両等は通してくれる。一般の者は通行止めで入れない。私たちチームも通してもらえるための交渉に難航した。さんざんたらい回しにされた。OKがようやく出た。担当課に今からじいさん家に行くと報告すると、あなた方に何かあっても関知しない旨を言われた。。。
じいさんは無事でよかった。また週末は雨の予報。行政に再度避難経路等聞く。そっけない。じいさんとその家族が中心に、近所の人で避難方法を自力で確認相談せざるをえない。じいさん、「おれもA市の住民なんだが。」と言った。
災害時、私は専門職として何ができるのか。じいさんばあさんを守れるのか。家族やペット、家はどうするか。
人の生き死に関わることが押し寄せた1週間だった。
東北の仲間が心を震わせながら懸命に伝えてくれた。とてもしんどかったのに。
ありがとうございました。感謝。
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