裏快道
老人ホームの喫茶でお茶を飲んでいた入居者の留次郎さん(仮名)が手招きしてくれたので近寄ると、脳卒中の後遺症で不自由になった言葉をふりしぼり「OH!和田さん、いっぱい飲んでいきな。おごるよ」と言ってcoffeeを頼んでくれた。
僕もすかさず「おおきに!」とよばれることにした。
複合施設で部署が違った僕は、留次郎さんと話したことはないが、顔はよく合わしていた。
なぜ僕を手招きしてcoffeeを飲ませてくれたのかは今もわからないが、男気を見せて気持ちよくおごってくれると言ってくれた留次郎さんの気持ちに応えるため、気持ちよく受けることにした。
お礼を言って席を立ち、留次郎さんの住まうフロアの職員に事情を話し、裏でこそっとcoffee代を返したのだが、これが後にとんでもないことに。
なんとこの職員は、こともあろうに留次郎さんに「和田がお金を返しに来た」とばらしてしまったのだ。
表で留次郎さんの男気を大事にして裏で返したのに、それを台無しにしたばかりか、「coffeeを僕におごるために手招きしてくれる留次郎さん」には二度と会うことがなくなってしまった。
僕の行動は何でもかんでも規則で管理したがる施設にあっては問題となる。光景としては、職員が入居者にお茶をおごってもらっているからだ。
僕は、入居者が職員におごるのをそのまんま受けることは問題だと思っているが、それは金品を受け取ることが問題だということで、気持ちを受け取る・受け止めることとは違うはずだ。
こんなふうに語ると「気持ちも誤解を受けるからだめ」という人もたくさんいる。
でもそれは、誤解を受けることではあったとしても説明のできることであり、その根っこに「気持ちに応える」とか「気持ちをくむ」とか「気持ちを入り口に何らかの真実に近づく」というように、入居者を主体にした思考に基づいていれば、誤解を解くことはたやすいはずだ。
それが職員である「自分にとっての利益」が少しでもちらつくようなら、単に「自分のためにした行動」ということになり、それは糾弾されても仕方がないだろう。これは自分との闘いでもある。
とかくリーダー的な職務についていると、形は違ってもこうした場面に出くわすことが一般職の人たちよりははるかに多いと思うが、職業倫理や決め事を優先しすぎるのもそれを無視した行動をとるのと同様に「入居者不在」となってしまいかねないのではないだろうか。
裏でお金を盗むのは泥ぼう・犯罪だが、表でお金を返して気持ちを泡にするのも罪な話である。しかも表でレクリエーション(快)を語っていたらお笑いである。
ご案内
東海地区認知症フォーラム2011in岐阜
まだ間に合うそうです。
お問い合わせ・申し込み先
名鉄観光サービス株式会社 岐阜支店
電話058-265-8103 担当:日比・野原・小栗
■ 主催 東海地区「認知症フォーラム2011in岐阜」実行委員会
■ 日程 9月15日~16日
■ 場所 岐阜羽島市文化センター「スカイホール」
■ 参加費 一般7000円
岐阜・愛知・三重3県GH協議会会員2000円
■ 内容
<15日13時-17時半>
○ 基調講演「介護保険制度の過去・現在・未来」
大森 彌氏
(東京大学名誉教授)
(介護保険給付分科会介護施設のあり方に関する委員会委員長)
○ シンポジウム
大森 彌氏
宮崎和加子氏
厚生労働省老健局
和田行男
○ 懇親会
<16日9時―12時>
分科会
(1)認知症の人の歴史を学びませんか
宮崎和加子氏
(2)専門職としての関わり
和田行男
(3)地域ケアにおけるケアマネジメント
和田厚子氏(岐阜県立飛騨寿楽苑GH結 前管理者)
(4)地域で看取りを!!岐阜のおくりびとから
小笠原文雄氏(小笠原内科院長)
(5)岐阜発~管理者としての地域とのかかわり
藤原富子氏(社会福祉法人和光会 副施設長)
何とかなる人はぜひお越しください
コメント
おはようございます。
留次郎さんの男気、その男気に答えた和田さん、どちらも粋な感じでいい話だと思います。私も和田さんのように男気、女気を尊重したいタイプですが、生真面目なスタッフやグレーゾーンのスタッフはどうも指摘の対象になる風潮が最近あります。「出る杭は打たれる」ってやつですかね。
横一線でないと、攻撃を喰らってしまう。攻撃を喰らうのが嫌なので、思っている事もできない。だから普通に介護する。って悪循環。
たしかに、男気に答えることは施設にとっては金品の授与かもしれませんが、じゃぁ、施設として男気は蔑ろにして良いのか!!意思の尊重は大事ではないのか?と思います。留次郎さんが、重度の認知症で、誰かれ構わず奢るなら別です。しっかりされておられるなら、それを受け取る職員の男気・女気を養ってほしいし、その行為を受け止める上司の男気・女気もあってもらいたいと思います。すいません、長々と持論を述べて。では、また。
粋でいなせなAさん。もう今はいない。
病気と闘い、あとは自分の時間を大事にしたいと決めた時点から出会った。
粋なAさんがCMを見て言った。あの伊勢海老のお造りが食べたいと。
世の中捨てたものではない。
家族がそこに連れて行って食べさせてやりたいと話す。
当時の責任者が動いた。(まんまるも動いた)。
「お前、一緒に行ってこい!」
CMのホテルに問い合わせた。
伊勢海老お造りはもう終了だと。えっ!
正直に事情を話した。支配人に変わった。
正直に事情を話した。
「お受けします。伊勢海老は何とか調達します!ぜひいらしてください。」
えっ。いいですか?(頼んでおきながらですが)
その宴席が、粋なAさんの最期の宴席になった。
まんまるも飲んで一緒に騒いだ。
女の私よりきれいなお姉さんとも一緒に飲んだ。
粋なAさんは、腹を抱えて涙を流して大口開けて笑った。
ホテルさんは何も言わず、笑顔で、でも粋なAさんと家族が気兼ねしないようとても配慮してくださった。
道中とびこめる病院も事前に複数個所お願いしていたが、無事帰宅した。
粋なAさんを支えてくださったかかりつけの先生に感謝。
そして今度は その先生の支援がスタートした。私は先生が貫いてきた姿勢、引き継ぎます。
だから、まんまるにそんなに頭を下げないで。
堂々としていてください。
和田さん、皆さん、こんばんは。
私は、前の施設を辞めさせられるように仕向けられ辞めました。理由は施設では4日間お通じがない方はマグラックスや下剤で便を出します。そのときに便が前に回ってしまい尿道にまで入ってしまった便を微温筒で流すのですが、職員が足りないという理由でさせてもらえない。
最初は施設も行っていましたが、なにぶんにも私は目立つ存在で、周りからの圧力で施設長みずから「職員が足りないから、やらないで良い」と言われた。「そんなにやりたいなら他の施設にいけ…」と…。なんでも施設中心、主体は誰なのでしょうか?その結果、今、施設という言葉がが嫌でたまらないです。
色々と迷い自分のやりたいところに行こうと今のグループホームに就業しました。
私の近場で通えるところは、このグループホームしかありません。その人らしく生きるということにおいては多少不満があっても働かなければ食べて行けません。自分の求めているところは「こもれび」や「きぼうのいえ」です。その人が、その人らしく生きていける居場所を作りたいです。
kmさん、kmさんのお気持ち少し解ります。私は、まんまるさんの言葉ではありませんが、姑息な手を考えています。人は、仲良くなると「まっ、いいか…」という気持ちになれます。「あいつだから大丈夫か…」「あいつならなんだか許しちゃうんだよな…」という風になりたいです。周りの先輩方と上手く出来なければ、御利用者にご迷惑がかかる。それは、なんとしても避けたい。御利用者にも先輩方にも出来るだけ笑顔を心がけ、御利用者が、その人らしく過ごせるお手伝いをしたいと深く心に誓い支援を行っています。
毎日、くたくたですが、でも、頑晴ります。
「こんな夜更けにバナナかよ」愛読中です。
今回のお話は微妙な内容だと思います。良く考えていなければ出来ないことだと思います。
わたしは同じことをする派で、実際しました。なぜするかといったら、そういうことを大切にするケアをしたいと決めたからです。そしてその素晴らしさ、入居者さんがどんなに素敵であったかをスタッフには必ず伝えます。
グレーゾーンというのですか?たしかに色々もめたこともありましたが、どうせグレーです。問題にはならないんです。逆に良い話し合いの機会になると思うんです。
そのうち、どうしたらそんなすごいことができるのか教えて欲しい、そういう「手柄」をとろうと張り合うようにもなりました。
こういう楽しさを知らないなんて、一体どんなところが楽しくてこの仕事してるんでしょう?
人の生活って、決まりごとじゃない。でもきまりがあるのは何のためか、考える必要がある。
単にきまりだからと決めつけてくる人は、そういうことを考えているのかどうかですよね。
グレーとかで素晴らしさを知らないままなんてかわいそう。仲間だったら、教えてあげましょうよ。
施設を変えるとかじゃなく、入居者さんの素敵な姿を実際に見てもらうと良いと思います。ああ、こんなことが出来るんだって。
その作業がまた、利用者さん主体なのか、利用者さんのためなのか、スタッフの押しつけではないのか、偽善ではないのか、そういったことを見極めてゆく作業にもつながると思っています。
私もよく、おじいちゃんに「持ってけ」なんて言って、キャラメルを頂いたり、おばあちゃんに飴を頂いたりします。
後でこっそり、袋に返したり、お返し~と言って直接渡して返します。
気持ちのキャッチボールだと思っています。
彼女達は、誰でもあげてる訳では無くて、相手を選んで渡してもいるので、職員の中には、一日居ても、一粒も貰えない人もいる。
気持ちが動く瞬間を大事にする事ですよね。
東海地区フォーラム、行って来ました。
大森先生の講演、とても有意義な時間になり、その後のシンポジウムも元気のみなぎる和田さん、宮崎さんに会えて、ワクワクしました。ありがとうございました。
少し疑問を感じたので思ったことを書きます。
あめ玉ひとつにしても、決して「これくらいならいいか」って受け取るわけではなく、気持ちを無駄にしないとか、気持ちの表れである行動、その姿を失わないようにとか考えて受け取るという返し(またはそれ以外のお返し)をしますよね。相手や状況によって、このあめ玉は、お礼かもしれないし、仲間の証だったり、もしかしたら自分ひとりで食べにくいとか、誰かと食べたほうが美味しいからかもしれない・・・など瞬時にいろんなことを考えてどうやりとりをするのか決めているんだと思います。
家族などから入居者への差し入れがある時には「どうぞ」「ありがとう」それだけで終わらせず、「じゃあ一緒に食べませんか?」と一緒にお茶の準備をしながら他の入居者さんと対話のひとつもできれば、差し入れその物よりそちらの方によっぽど意味があるのではと思います。
受け取る場合にも、単に受け取るだけでなく、物を糸口に仲間や支援の輪を広げていく環境をなるべく作ろうと思うし、私はできれば「物」がなくても関係がつくれるということを分かってもらえるように努力するべきだと思います。だからルールの底にある考え方はとても大事だと思います。
留次郎さんの話の中の和田さんの行動は、不自由な言葉をふりしぼり手招きするこの人の姿や気持ちをこれからも失わないようにと、手順を変えて(手間を踏んで)ルールを守っているのだから、決して職業倫理や、決め事を優先しなかったわけではなくむしろ逆ではないかと感じたのですが。
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