げんぱつとにんち
言葉を省略して語ることがある。
関西人である僕は、アイスコーヒー(冷たい珈琲)のことを「レーコー(冷珈)」といったように、短縮言葉が子どもの頃から身についている。
そんな僕でも決して省略しない・してはいけないと思っている言葉に「原子力発電」があり「認知症」がある。
原子力発電に反対する人たちでさえも「反原発」「脱原発」というように省略するが、原発では「原子力」の脅威や怖さが薄まる。
猛威をふるっているのは原子の力であり、原子の力は人の力ではまだまだマネジメントできないことを見せつけられているが、これを「原発」と省略したら何が脅威なのかわからなくなるではないか。このたびの事故なんかは典型的で、きちんと「原子力」と表現してもらいたいものだ。
発電の燃料は他にもあるが「火発」「水発」「風発」などとは誰も省略しないのに原子力発電だけは原発と言う・書くところに、原子力を薄める「意図」を感じるのは僕だけだろうか。
形は違うが認知症もしかりで、認知症のことを「にんち」と言う人が増えているのに驚く。『Aさんには「にんち」があるんです』って僕に言ってきたら『「にんち」はあなたにもあるのでは?』と返す。
痴呆症が認知症に呼称変更された当初は聞かなかった「にんち」だが、徐々に気になるようになり、ここ最近では認知症のことを人前で語るような人が平気で「にんち」などと言うからたまげてしまう。
国語辞典によると、認知とは「ある事柄をはっきり認めること」とあるが、それが「あると言っている」ということは「正常な状態にある」ということをどれほどの人がわかって「にんちがある」と言っているのだろう。
認知症という状態にある人を指して「にんちがある」という言い方は言葉として成立しないばかりか、僕には差別用語に聞こえてならない。
げんぱつ・にんち
似ても似つかない二つの言葉だが、共通するのは「曖昧」。辞書によると、曖昧とは「態度や物事がはっきりしないこと。怪しくて疑わしいこと。いかがわしいこと。また、そのさま」とある。
原子力発電も認知症も明確で、決して曖昧にしてはならないことであり、曖昧にすればするほど本質からずれ、勘違いを引き起こしやすくなる。
言葉づかいについて人様にモノを申せない自分であることは重々承知の上だが、気づいてもらえたら幸いである。
コメント
先日は名古屋のセミナーにて、貴重なお話ありがとうございました。まんまるとまんまるいの二人で参加させていただきました。声をかけた仲間も複数来ていたので、うれしかったです。新しい引き出しが頭の中に増えました。が、引き出しの中はごちゃごちゃなので、追々整理整頓していきたいです。
私も「認知症」を、「にんち」と専門職が当たり前に言うのに違和感をと・て・も感じています。キャンセルをキャン等なんだか私には分からないけど。
言葉ほど、いいかげんなものはない。上辺だけで本意は違うことも多々ある。生まれつき言葉を持てない方にとっては、他のコミュニケーション方法が必要(知的しょうがいをお持ちの方々と一緒のときに痛感)。表情や声の調子、全体の雰囲気や身なりまでが情報となる。
言葉ほど、大事なものはない。
じいさんばあさんの名前を、事務的処理をするために敬称なしで表にし、常日頃、事務的処理のためにその名前を呼び捨てにしていた先輩。だんだん名前の扱いがぞんざいになり、電話等でも呼び捨てにするようになった。
毎日マイナスの意味を持つ言葉を発言していると、顔も自然に暗くなったりこわくなったりする。
言葉はおもしろい、すごい、こわい。
「認知症」を「にんち」か…昔は「あの人、『ちほう』だから」と言ってたのが置き換わっただけで、レッテル(=差別用語)であることは間違いないと思う。
レッテルは、自分が積極的に受容できず、マイナスイメージで捉えているものを一律に決めつける時に使われやすい。逆に言うと、介護職員が「にんち」という言葉を使うなら、それは目の前にいる高齢者を受容せず、人間らしい対応をしていない証拠だろう。
この言葉を聞いたら、「あなたは介護の専門職として、認知機能に問題があるね」と言ってやりたい。
読み返して驚愕しました。書こうと思ってたこと忘れるくらい。
和田さん、みなさん、こんばんは。
私「認知」と省略して使われていること知りませんでした。どちらかというと意識していなかったです。
「原子力」を原発ということ、「認知症」を認知ということ、私も良いと思いません。本来の言葉の意味がもつ大切なことをなくしてしまう気がするからです。
私自身は、施設の御利用者の名前が様を使わないで書かれてあることに抵抗があり、自分は様をつけて書いていました。やはり、その人に対する態度がぞんざいになりそうだからです。
私自身・・・、なんでもかんでも認知症だからで片付ける人に対して、ものすごい嫌悪感を覚えます。それ以外でも、あの人は○○だからで片付ける人も苦手です。だから、なんなの・・と思ってしまいます。
まんまるさんの言葉
「毎日マイナスの意味を持つ言葉を発言していると、顔も自然に暗くなったりこわくなったりする。」を読み、妙に納得しました。
メディアでとりあげられた介護専門職の取り組みです。知人から聞いた話なので詳細はわかりませんが、知人はこの話のどこか違和感を感じたそうです。内容は・・・
認知症を抱える人達が、個々の得意分野を活かして、子供達に指導するというもの。認知症の人は繰り返し同じことを言うので根気強く教えるのには適していて結果うまくいっている。
(*あくまでも知人が放送を聴いて受け取った内容です)いろいろ思うところはあるけれど。これが良い取り組み、良い結果であるとすればそれは
子供達のために懸命に伝えようようとする大人がいる。素直に受け入れようとする子供がいる。互いに必要としている関係が築かれている。年をとっても、認知症を抱えていても人の役に立ちたいと思うし、世の役にたつことはできる。人が持っている力と、それを引き出す専門職がいるからこその結果で、そこが素晴らしいこととして紹介されていたのなら違和感は感じなかったんだろうとおもいます。
知人は介護職ではないけれど、認知症の人が同じことを繰り返して言うことと、それが結果オーライにつながっているという部分に違和感を感じ、とても失礼な話じゃないかと言っていました。これがふつうの人のふつうの感覚だと私も思います。単なる伝え方(ここではメディア)や言葉の表現上の問題だけでなく、その奥に潜んでいる核心的なところにズレを感じます。一見良い、と思える事柄にも、その真ん中に見え隠れするもののわずかなズレが、次の差別・偏見・人としての上下関係・虐待などを生むのではないかと思えます。
追伸
私が知っている事実はただひとつ。話に違和感を感じた知人がいるということだけです。。
たまたま触れた1%かもしれない違和感。流さずに考えるひと手間を決して省いちゃいけないところの1%は、私達の身の回りにも意外と多く、存在していると感じます。
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