災害事故支援 見極めて応じる
3月11日の大地震・大津波、そして原子力発電所の事故。
自分にできること・自分がしなければならないことは何かと考え、所属する法人のボスや職員とともに、全国各地の友人知人とともに、所属する事業者団体など介護業界の仲間たちとともに、被災者・避難者の支援をさせてもらってきた。
僕はこの間一貫して、前線で支援にあたっている友人や仲間を応援する後方支援に努め、友人知人からカンパを預かり、それで物資を調達して運び続けてきたが、まさに前線で支援にあたっている友人からレポートが届いたので紹介したい。
これは、僕にカンパを預けてくれた僕の後方で応援してくれている者たちに贈るレポートであるが、ご披露させていただくことにした。
僕の友人は福祉系職能団体に所属して、普段から年齢に関係なくハンディキャップのある人たちにかかわっている人だ。23日にこんなメールが届いた。
「福島県の浜通り地域は、原子力発電所を境に北と南に分断されています。自分は明日、仙台を経由して、北で孤立している施設に向かいますが別の人が南に入ります。一番心配な浜通りに物を運ぶことができるので今ちょっと興奮しています。皆様からいただいた物資を皆様からいただいたガソリンで、物流が行き届いていないいわき市に運びます。自分は現地でこれから必要な支援を探っていきます」
以下、浜通りを訪問した時のレポートである。
20011年3月24日(木)
仙台市に本拠地を構える宮城県社会福祉士会へ懐中電灯等を届けた。
仙台市内は、崩壊などの目立った被害は見当たらないが、道路の修復工事は地震の影響かと思われる。ガソリンスタンドへの車の行列は郡山市内と同様。仙台へ来る途中、かなりの台数のタンクローリーを目撃しているので流入している実感はある。
仙台の仲間から「仙台から沿岸部に2度訪問しているが、何もなくなった場所で、何をしてよいのか分からない状態だ。今後、成年後見利用者は被災者を中心に増えていくことが考えられる。養成研修の準備をしているところに地震がきた。予定通りにはいかないが、開始時期を遅らせても実施して応えたい」とのことだった。
仙台市から、仙台南部道路・東部道路を通って、名取・岩沼・山元へ向かう。仙台東部道路に入り、仙台空港周辺から、津波の被害が見えるようになる。
海側から東部道路の土盛りまで、建物は崩れていたり、一部流されていたりしている。車が横転している。仙台で聞いた話の通り、瓦礫もなく全てが流されてしまった様子が見てとれる。
山元から6号線へ。6号線から海側はいたるところ津波の被害のあとがあり、道路の路肩は大きく陥没しているところが目立つ。
新地町で新地ホームを訪問する。
JR新地駅。車両が斜めに横たわっている
新地町役場から新地駅方面へ200メートルの地点
新地町地域包括支援センターの職員に話を聞くと…
「津波の被害がない人は自宅で過ごしているが、職員は訪問できていない。区長(町内会の代表かな)が回っているようだ。商店が開き始めたが、何時にどこが開くかという情報は分からないだろうし、店まで行って並んで購入するということはできないだろう。また、十分に食料が入っているとは思えない。そのため、現在必要なのは食料。簡単に食べられる食料が必要と思われる。しかし、それを各家庭に配る体制も出来ていない。要介護状態の人は施設で対応している。しかし、避難者が施設を利用している状態なので、自宅で暮らす人がショートステイなど今までどおり利用できなくなることを心配している。要介護状態の人や新地ホームへ紙おむつなどの物資は入っている」
職員自身が自宅を流されているにもかかわらず笑顔で出迎えてくれて、「必要な物は何か」と聞いても、「ここはどうにかなっているので他の大変なところへ」という言葉を何度も聞く。
セブンイレブンにはおにぎりが入っていたが、惣菜等はまったくなかった。
さらに相馬市社会福祉協議会はまなす館へ向かった。
相馬市地域包括支援センターの職員に話を聞くと…
「はまなす館で500人くらいの避難者。他に4、5箇所ある。水がまだ出ていない。物資は十分に来ている。女性用の生理用品が足りない。今日から商店が開き始めてきた。ガソリンは足りない。
避難所の中では、被災者から悲しい話を聞く。「歩けないじいちゃんを置いてきた」「2階で寝たきりのばあちゃんを置いてきた」そんな状態の人ばかりが避難所にいる。
認知症の方もいる。夜中に騒いでしまって、他の避難者が眠れなくなってしまう。認知症を理解できない方も多い。夜認知症の人を別の部屋で対応するようにしたが、トラブルは多い。
精神科の薬、市販薬ではない処方薬がない。相馬市には精神科の病院がなく、通常は原町に行っていたが、いまは原町に入れない。精神科受診は宮城に行くようであるが、初診になるので診療も処方もスムーズにいくとは思えないので、困っている。
漁師町で威勢の良い10代20代の若者が、家をなくし、親をなくし避難してきているが、いったん喧嘩が始まると大変なことになり、警察を呼ぶようなこともあった。
寝たきりの人のスペースも作った。認知症の方も含め、現在は「人手」がほしい。
地域包括支援センターの職員であるが、社会福祉協議会として避難所の運営もするため、夜勤を含めローテーションで勤務している。地域を回る余裕はなかった。昨日あたりから、一人暮らしの人のことが心配になってきた。今は地域の人がどうにか声をかけてくれているらしいが。
避難所の人たちが自主的に折鶴を折って飾ってくれている。その折鶴を見ると自分も出来る限りのことをしていきたいと思う」
訪問したとき、被災者が列を作っていた。靴下が支給になったらしい。1人2足。着のみ着のままで避難した方が、その靴下2足を大事そうに抱えて階段を上ってくる様子が忘れられない。
畳の部屋で休んでいる人、廊下で休んでいる人、さまざまであるが、横になっている方が多いのは、疲労なのか、やることがないのか。まだまだ「生活」のかけらも見えない。遺体の収容が出来ない方もいる様子。物資を運ぶだけの援助ではない、次の段階がきている事を痛感した。
以上
11日以降頻発する余震。それも半端じゃなく揺れるから寝ていられないとのこと。僕が訪問したときも震度5でグラグラ揺れた。
必要なものは時々刻々と変わっていく。オムツが必要!と聞いてオムツを運ぶと、着いた時点では必要なものが野菜や牛乳になっていたりする。
十二分には応えられないが、震災・津波・原子力発電所事故のトリプルパンチは、これからが「互助本番」である。
「必要なときに・必要なものを・必要なだけ」いつも自分が語っている支援の原則である。何が支援として必要なのか・どれだけ必要なのか・いつ必要なのかを見極めて、状態や状況に応じられるようにしていきたいが、そのためには状態や状況を「知る」ことであり、こうして情報交換を行いながら応えられることに応えられるうちは応えていきたい。
それなら僕にもできる。しかも、所属会社のボスや職員、友人知人、仲間、家族とともになら、できることが増える。
コメント
「必要なときに・必要なものを・必要なだけ」いつも自分が語っている支援の原則である。この言葉をみて自然に笑顔+ガッツポーズが出ました。できることは何でもお手伝いします。お供します。
転んだ人。
自力で立ち上がることが難しければ、極力それができるように、力をあわせて力を引き出すことが、私の仕事だと理解しています。
病気で体が動かなくなることも、事故も天災も石につまづいて転ぶことも、支える基本は同じだろうと思います。
復興や創成の長い長い道のりのどこかで、何かの力になれたらと認知症を抱える人たちに色んな力を与えてもらいながら今思うことです
津波で実家が流され両親を失った友人のブログを紹介します。
同情ではなく察することが出来る人。そして「支援とは?」を真剣に考えている人に読んで見てもらえることを願って載せますね。
http://monchiblog.exblog.jp/
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