「生活費自己負担」は「ふつうの生活」
次の介護保険制度改正論議が正念場を迎える。まずは介護保険法そのものについて国会での議論が始まり、法制度の枝葉の改定作業は今年が本番となる。
いろいろと思うところはあるが、まずは基本的なことを整理してもらいたい。
そもそもから考えてみよう。
そもそも自宅で生活をしている人は、自宅生活に要するものを自分のお金で購入する。つまり自己負担が原則(一般的には「当たり前」という)だ。
その人が役場や公民館を使ったとする。そこでトイレを使用するとトイレットペーパーは備え付けられているが、その使用料を支払うことはまずない。つまり公費負担ということだ。
駅や店舗のトイレに配備されているトイレットペーパーは、事業者が備えるから事業者負担であるが、利用料(運賃や商品価格)に含んでいるはずだ。
これを介護保険制度に置き換えてみる。
自宅で生活している人は、要介護状態になっても自宅で使用するトイレットペーパーは自分の生活費で買っているはずで、それは特殊なことではなく「当たり前のこと」だ。要介護状態にあるからといって介護報酬でもらっているはずはない。生活保護受給者だって、生活扶助費の枠の中で日常生活に欠かせない必要なものとして買うだろう。
その人がデイサービスや老人保健施設を利用した時に使用するトイレに備えられているトイレットペーパーは事業者が準備しているが、それを利用者から費用徴収することは許されていない。なぜなら、役場や公民館と同じように自宅を拠点にして利用する施設ということであり、その経費は介護報酬に含めている=公費負担ということなのだろう。
ここまでは誰が考えても納得できる話ではないか。
ところがである。
介護老人福祉施設(以下 特養)、特定施設、認知症対応型共同生活介護(以下 グループホーム)は自宅か施設かと問えば、多くの人が「生活の場」と言っているし、法的にも特養は「入所者・入居者」特定施設やグループホームは「入居者」と呼称して位置づけ、あえてデイサービスなどの「利用者」と区分けしていることを考えれば「自宅」と考えるほうが自然だ。
つまり、生活の拠点である3事業とも居宅に位置づけられるべきで、居宅ならそこで必要なものは自己負担が基本ということになる。
ということだとしたら、生活に欠かせない日常生活に要するものまで介護報酬に含むとしている現在の在り方は、公金の使い方として間違っているのではないかと疑問が出てくる。その典型が生活保護受給者で、生活に必要なものを揃えるために生活扶助費を支給しておいて、生活に必要なものを介護報酬に含むとしたら重複支給ということになり矛盾をきたす。
利用する場所で使用するものは利用料に組み込み、住まう場所で使用するものは生活費として扱うべきで、生活費の自己負担は「ふつうの生活」の有り様だ。
僕は、自宅で使用するすべての物は自己負担の原則と事実に立って、特養やグループホームなど生活の場に備える入居者用のすべてのものは、トイレットペーパーから冷蔵庫・車に至るまで、金額や物にかかわらず入居者負担とするべきだと考えている。
介護保険制度は「介護に要するもの・人」に対して支給されるべき公金で、生活費に対してではないはずだ。生活に要する物まで税金や介護保険という公金で拠出していることをオープンにして議論したら、国民の多くは「それはふつうの生活を超えている。手厚すぎる」と怒るだろう。ましてや、その結果として保険料が高くなったり、介護職員の待遇が抑えられて介護職員不足が起こって現場で困っているということになれば、なおさらである。
あわせてその延長線上でいえば、公金が拠出される特養やグループホームは公営住宅であり、公金が拠出されないグループホームや特定施設なら民間住宅。つまり住宅政策であって介護政策ではない。
だから住居に誰もが家賃やローンを払っているのと同じように、特養やグループホームなど住居に要する費用を「ホテルコスト」(この言い方がおかしい)や「家賃」として徴収するのはわかりやすく、敷金を徴収されたとしても今の僕に違和感はない(負担増に文句言う国民はおかしい)。
デイサービスや老人保健施設は病院や公民館と同じ施設であり、公金を使って整備すれば公設施設、使わなければ民間施設ということだけのこと。だから「民間施設で施設経費を利用料として徴収する」というのであれば、これもまたわかりやすい。
あわせて言えば、低額の公営住宅があるように、国民の誰もが困ることがないように低額の特養やグループホームなど介護付き住宅を整備するのは「福祉の増進に努めなければならない」とした憲法を遵守する国の責任でもある。だから低所得者向けの政策が住宅整備+家賃補助のように重なってくるのはわかるが、低所得には四人部屋のように別枠にされると違和感をもつ。
もう一度原点に返ってわかりやすく整備しなおしてもらいたいし、こういうことにこそ政治家でも官僚でも「主導」を発揮してもらいたいものだ。
理にかなうように整えることはお金がなくてもできることと付け加えておきたい。
コメント
冷蔵庫という単語に反応しました!
職員が冷蔵庫の中身を確認して入居者さんに伝えその日のメニューを入居者さん自身に決めてもらうことや、職員が冷蔵庫からペットボトルを取り出しテーブルに置き入居者さんが自らコップに注いでお茶するとか、職員(私)がしている冷蔵庫を開け確認したり取り出すこの部分、気が付くと「出来ない部分の支援」じゃなくて「管理」の意識があることに気付きました。
本来、自分の意思で自分のタイミングで自分で冷蔵庫を開けてみたり、空っぽだあと思えば「買い物にいかなきゃ」につながったり、人数分ないからこっそり隠れて食べようとかがあるわけで。
だから、開け閉めが出来る人にはまずはそれが出来るように声をかけてみたりしている。車イスで移動する人だって、冷蔵庫という認識ができない人だって、冷蔵庫の前に立ち中身を見ることは食のふつうの(私的には魅力的)な行動のひとつだろうなあと思います。
そう考えると、施設の中で冷蔵庫は入居者さんにとって自分達の持ち物ではなかった(間違っていますか?)というのはちょっとびっくりです。
追伸!
名古屋のセミナーに参加しました。和田さんの問題提起はバトルを通して、まさに私達介護の専門職に向けられているような気がしてきました。
池田先生のスライドで「治療の効果」という文字が印象に残ってぐるぐる廻っています。その先にあるものはきっと、人が生きる姿なんだろうなあ・・とぼやっと考えていました。いつも思うけど、面白かったで終わらせず収穫になるように、自分自身でも考える頭を大事にしたいなと思います。
私はちょっと(ちょっとだけです)抜けているのですが、おかげで意外な発見ができることも多々あります。
味噌汁を作ってもらおうと入居者さんを呼んだ。だいたい必要なものを用意してからお願いするのだけど、、その日は味噌を用意しておくのを忘れていた。 「んで、味噌はどこだい?」と怒られながら冷蔵庫を指差してみたら、自分で冷蔵庫から取り出し、調理がおわるとその日は自分で冷蔵庫に味噌をしまった。ついでに、職員も見逃した冷蔵庫内の汚れに気付き台拭きを絞って拭き、「汚れてたよ」と教えてくれた。
できることをできるように・・・なんていいながら、ふつうにできることも封じこめていた気がして恥ずかしいなあと思いました。それと制度から現場に至るまで「ふつうの生活」という軸が、一貫していないと感じることがやっぱり時々あります。
なかなかお風呂に入りたがらない男性の入居者さん。寒いから嫌だと言うのだけど、どうもそれだけではないみたい。なんとかお風呂場まで誘って嫌を承知で洗うのを手伝っていたらその方、男女のあんなこんなの話を始めた。
一応わたしも女子なので、え・・・と思いながら考えました。やっぱりやっぱり風呂に入るのに、服着た誰かがしかも女性がぴったり張り付いている状況ってふつうじゃないと思うんですよね。おかしな状況、傷つく状況。そんなおかしくて許せない状況をどうにかおかしくない状況に変えている、とあんなこんなの話をしながらお風呂に入るその方をみて思いました。
入りたくないこともそんな会話も、捉え方によっては問題・症状になってしてしまうわけで、捉え方って大事だな~と思います。間違っていたらすみません。
ブログテーマと関係なくてすみません。
書いたもんがち~!
書いたもん勝ち~ですよ!!
特養から有料へ転職し、カルチャーショック受け、「冷蔵庫は施設のもの」に反応しました。じゃあ、「ご自由にどうぞ」と書いてあるレストランの冷蔵庫の飲み物は?利用者さんの利用料で買ってあるはずだから、利用者さんのものですよね?それとも、施設がお金を自費で払ってる??
全く飲まない人もいて、たくさん飲む人もいて、個人負担が一緒ってなんかへん・・・しかも、職員も飲んでる! 有料だからあり、なんですか?
話がずれてごめんなさい。
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