はずかしい
もともと恥ずかしがりやの僕が、いつの頃からか「恥ずかしい」って思うことが少なくなってきました。
ところが思わぬところに恥ずかしいって感じることがあったのです。聞いてください。
緊張することはしょっちゅうありますが、25歳頃からは「恥ずかしい」って感じることが少なくなりました。僕は人に言わせると他人と違う行動をとることが多いようですが、それに何を言われても恥ずかしいとは思わないし、ライブハウスのような踊れる飲み屋でめちゃめちゃ踊って笑われても恥ずかしさはないです。
ときどき「写真を一緒に撮っていただけますか」と言われると、相手の方の年齢や性別に関係なく「恥ずかしいなぁ」と思いますが、それも随分と慣れてきました。
7年前「大逆転の痴呆ケア」という本を出版してもらったばっかりの頃、即売会の席でサインを求められたとき「恥ずかしいなぁ」ってものすごく思いましたが、それも随分とすれてきてしまい、今ではすっかり恥ずかしさは失せました。
もともとは恥ずかしがりやで、人前に立って自分の名前を言うのも恥ずかしくて死んでしまうのではないかと思われるほどの僕でしたが、国鉄に入って労働組合活動を通じて人前で話すことが多くなり、場数を踏んでいるうちに緊張はしても恥ずかしさはなくなりました。ほんと慣れですね。その頃から、それまでと同じことをしていても、恥ずかしいと思うことは激減したように思います。
ところが、ところがです。
55歳の僕が顔を赤らめたのではないかと思えるほど恥ずかしいと思ったことに出くわしたんです。
僕がトイレに入り、男の子ですから立っておしっこをしていると、扉を開けてちびっこが入ってきました。鍵をかけて閉めておくと、扉を外からガタガタさせてうるさいし、扉を壊されるのもいやなので開錠しておくのですが、入ってくるなり僕の腰を片手で握りしめて体勢を確保し、僕の放尿シーンを微動だせず息を殺して「じーっ」と真剣な眼差しで見つめるんです。
上から目線でちびっこを見下ろし、おしっこの出ている「ベニスの親戚」の先っぽを
不思議そうに見つめるちびっこの目と目が合ったときのなんとも言えない恥ずかしさ・・・。
ちびっこをどっかにやりたくとも、放尿中の男子は赤子のごとく無抵抗状況下にあり、なすすべなし。足や手を使ってちびっこをふりほどこうとすれば放尿の放物線が揺れて場外に尿が散ってしまうし、口であれこれ攻撃して退散させるしかないのですが、その光景を別の自分が冷静に描くと、可笑しさよりも恥ずかしさが増すばかりです。
二人のちびっこは年子なので、上が興味なくなったかと思いきや、下が興味を持ち始めて波状攻撃を続けてきます。
僕の連れ合いに聞くと、座って何も見えなくとも、たとえちびっ子といえど恥ずかしいから扉を開けられないように・トイレから追い出すなど抵抗すると言っていましたが、座って放尿・放便する女性は両手を使えるので抵抗のしようがありますが、男性が立ってする場合はねぇー。
放尿なんて自然な行為だから恥ずかしいなんて思いもしませんでしたし、これまで他人に何度も現認されていますが、ちびっこの「真剣な眼差しと探究心に満ちた瞳による凝視」には「和田行男」もボロボロです。
婆さん支援で、いつも気にかけている「さりげなく」「空気のような存在に」ということの逆パターンですが、意識され凝視されるというのは、かくも恥ずかしいと感じることなのだと改めて考えさせられました。
ちびっこに感謝です。
コメント
「恥ずかしい」ではないけど先日「ドキドキ」した事がありました。主人と電化製品の量販店に行きあれこれ買い求めた後のことでした。
字を書くのが苦手な主人に代わって伝票に住所他記入していた際、必要外の箇所に記入しかけた私に「違う!」と主人の声、更にもう一枚記入中に「違うって!!」…お店の人に「すみません」と笑顔で誤りましたが「ドキドキ」してしまったんです。
帰りの車中でうちの利用者さんもひょっとしたらこんな想いしてるんちがうかなぁってまた「ドキドキ」。もしこれが自分の家でありそして周りに気遣わなければならない人がいなかったなら「ほんならあんた書いてよ!」って言い返していたはず。
帰宅後何やかや忙しく忘れていたけど、翌朝起きたときに引きずっている自分がいました。
「それおかしいで」「違うがな」「そうかぁ」「ま違うてたら教えてえな」って利用者さんがドキドキせずにいられるような環境で私たちはありたいと思います。ある意味私も主人に感謝です。
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