重ねて「暴力・暴行」
おむつ交換のときに暴力をふるわれて困っています。
暴力をふるう利用者がいますが、どうしたらよいのでしょうか。
皆さんから「暴力」に関する質問も多いので、改めて書いてみることにします。
そもそも「暴力」を調べると、ある辞書では「乱暴な力・行為、不当に使う腕力」「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」とあり、広辞苑では「乱暴な力、無法な力」とあります。
暴力といえば暴力団がすぐに描けますが、暴力団とは「暴力や脅迫などによって、私的な目的を達成しようとする反社会的な行動集団」と書いてあります。
辞書でどのように規定していようが、「暴力」の一般的なイメージは「自分が自分の思うままに相手を従わせるに当たって不当な力を振るうこと」を指しているのではないでしょうか。
その証として、他人から殴りかかってこられたときにそれを振り払うために腕力を振るっても、一般的にはそれを暴力とは言わず「抵抗」といいます。抵抗の手段として腕力を振るっただけのことであり、不当に対する正当な防衛で、暴力行為(暴行)に対する抵抗行為(抵行:和田が勝手に作った言葉です)です。
同じ行為でもその動機や目的が違えば、その表現(ここでは言葉)が違うのは当たり前のことです。
「自分の理解や納得がないまま、和田さんにパンツ下ろされてもかまわない人はいますか」
研修会でこんな質問をするから二度と呼んでもらえなくなるのですが、これがとてもわかりやすいと自画自賛している例示です。
受講生は1人も「OK」とは応えてはくれません。そこで会場の人に「ダメですか」と聞いて回りますが、全員が「だめ!」とキッパリ言います。
「それでも脱がせにいったらどうしますか」って突っ込むと、必ず「逃げる」「声を出す」「叩く」など、何らかのアクションを答えてくれます。和田からの「不当なパンツ脱がせ行為」に対して抵抗をするということでしょう。
さらに「それでも脱がせにいったらどうしますか」と押し込むと、さっきよりはもっと明確に抵抗の手段を答えてくれます。人によっては泣きそうな顔で黙ってしまう方もいます。
つまりそれぐらい「不当なパンツ脱がさせられ行為」は屈辱的でつらく腹立たしいことであり、不当に対してもてる力の限りを尽くし、総力をあげて抵抗行動をとるということではないでしょうか。
皆さんが抵抗するときは「口=大声を出す、噛み付く、つばを吐く」「手指=殴る、掻き毟る、つねる、押しのける、振り回す」「足=蹴る、突く、駆ける」「頭=突き」など、ありとあらゆる武器を使うことでしょう。
ところがそんな皆さんも、自分の理解や納得があれば、言われなくとも脱ぎます。その典型が入浴で、入浴=裸で入る=衣類を脱ぐとなりますから、自らすすんで脱ぎにかかります。自分の理解や納得がある場合は、誰に何を言われなくとも衣類を脱ぐ自分ですが、理解や納得がいかないとなると力には力で抵抗するということです。
婆さんはどうでしょうか。
婆さんは認知症です。認知症は理解力に障害をきたします。一旦は理解できたとしても記憶障害があり、その理解を継続することができず次のようなことが起こりうるのですが、よく考えると婆さんのほうが正しいことがわかります。
便失禁を起こした婆さんが、自分に理解や納得がなく介護者から下着の交換をされれば、皆さんが和田から不当にパンツ脱がせ攻撃を受けているのと同じ状況であり、介護者側にとって正当な行為であっても、婆さんにとって不当だと感じれば、みなさんと同じように総力をあげて抵抗することでしょう。
おむつ交換のときに「○さん、オムツ交換させていただきますね」と声をかけ「頼むね」ということですすめると、オムツに手をかけた途端に「何するんや」と手を叩かれたり・つねられたり・つばを吐かれることがありますが、その瞬間に理解や納得がなければ、婆さんにとって介護者は追いはぎや痴漢と同じであり、それには抵抗することでしょう。
デイサービスに連れてこられ、いくら直談判しても帰してもらえない、あげくの果てに鍵をかけて閉じ込められるなど不当な扱いを受ければ、誰だって怒りまくるし、介護者に手を振りかざすことがあったとしても、それも至極当然のことです。
自分の理解や納得がいかないまま、自分の身にかかることが起こったら「抵抗」「反抗」「反撃」「反発」「乱暴」「粗暴」「凶暴」「沈黙」など、どう言われようが意思表示するのは少なくとも日本の社会では当たり前のことであり、それらは決して「暴力」と言われることはないはずです。
認知症により知的能力が衰退し、何をされているのかがわからない状況下での婆さんの正当な抵抗行動を「暴力」と決めつけ、異常行動・問題視・症状呼ばわりしていないでしょうか。
認知症によって環境に適応できていない状況から起こす行為・行動に対して、それを受け止めて手を差し伸べるべきはずの専門職が、反社会的犯罪行為と同列視して言いがかりをつけるようなことになっていないでしょうか。
中には、脳が壊れたことなどによって感情のコントロールが利かなくなり、病的に粗暴行為に及んでいると思われることもあるようですが、それとて脳が壊れていない人が乱暴・粗暴な行為をしているのとはわけがちがいますから、一般的に言われる暴力とは区分けするべきです。
同様に、自分の意思表示の仕方が、自分の意思とは無関係に他人には暴力と映りかねない行為になってしまう状態の人(育児や幼児教育の世界では、コミュニケーションによる衝突なんて表現されています)もいるでしょうが、それとて区分けが必要です。
でなければ婆さんは誤解され、合法的に「粗暴な病人」とされてしまい「治療」と称して様々に乱暴なことをされかねません。そこに認知症への社会的蔑視、差別・選別の土壌が潜んでいることも見逃せないことであり、その先頭を専門職が走っているとしたら…。
脳が壊れているからこそ起こってしまうことであるにもかかわらず、脳が壊れていない人と同じ行為として受け止められてしまうとしたら、それこそ暴力的なものの見方・考え方で、脳が壊れていない人のおごりです。
「介護への抵抗」「暴力・暴行・暴言」などとレッテルを貼ってほざく前に、どうしてそういう行為・行動になるのかを紐解くことこそ認知症を理解するということであり、理解しようとすれば「そりゃそうだ。脳が壊れていれば起こっても仕方がない」となるはずです。
その上で、的の得た支援策を講じることで、いわゆる「介護への抵抗、暴力・暴行・暴言という意思表示」とならないようにすることが、婆さんを支援するプロではないでしょうか。
「認知症を理解しよう!」「人として生きることを支援しよう!」「認知症があっても人であることに変わりはないのだから」などと説いた同じ口で、こうしたことには疑問ももたず世間の常識を鵜呑みにして、認知症を語っている人がたくさんいることも僕には疑問だらけです。
僕が間違っているのかもしれませんが、ご一考を。
追伸 重ねて「御礼」
本日10月11日
おかげさまをもちまして55歳を迎えることができました。
ありがとうございます。
陰に陽に支えて下さっているみなさまに
心より感謝申し上げます。
また先日
ブログをまとめた『認知症開花支援』を出版していただき我が手にすることができましたこと、重ねて御礼を申し上げます。
三度目我がお頭を痛めた子、可愛がってくだされば幸いです。
ちなみに私事ではありますが、三人目の子が、わが妻のお腹に誕生したこともご報告させていただきます。
高齢・少子社会化に果敢に挑む和田行男ともども、今後ともよろしくお願い申し上げます。
コメント
うわァ! おめでとうございます。世の中にいろんな宝を産み出す天才ですね和田さんは!
そっと後ろにまわり支えていたつもり。でも、多くの先輩達の背中に、実はそっと導かれていたんだって気がしてきたこの頃です。
和田さん 重ねておめでとうございます。
『認知症開花支援』楽しみにしていました。
お誕生日なんですね・・家庭の温かさ・家族の
ありがたさを感じているのが文面から受け取れます。失いたくないものが増えていき、それゆえ悩みが尽きなくなる。
「どうにかなるさ」と自分に言い聞かせながら、「自分の歩幅で人生歩んでいく」と、ばあさんから教えて貰いました。
この仕事で得たもの・・大切な宝・出会い・癒し・・ばあさんたちに改めて感謝です。
振り回されながらも幸せを感じています。
はじめまして。
和田さんのお話、参加される皆様の話、いつも楽しみに拝見させて頂いています。
私は、訪問介護事業所でサ責をしています。日々積み残しの業務に後ろ髪を引かれながら、バタバタと一日が過ぎてしまいます。
何かスッキリしない胸のモヤモヤがあり、辛いです。すみません。素敵な語らいの場に変な事を書いてしまって…
あ~羨ましいなぁ と思いつついつも覘いています。本当にすみません。 ただ
ちょっと、独り言を言ってみたかっただけです。
これからも、すてきなお話をきかせて下さい。
利用者主体・意思尊重・ふつうの生活・できる力を大切に・・・などなどを掲げて実践、柔軟に対応しているという施設が紹介されていました。
支援の一つである「食」について。
「○○が食べたい」そんな会話が出れば、その場で利用者さんも巻き込んで食材を買いに行き、調理をする。出来たものはその日のおかずの一品や、おやつに登場ということも。家族や近隣の人を招いての食事会も頻回に行い、そんな時は(配食サービスをストップして)「みんなでキッチンに入っていますよ」というお話。
そこまでの考えと環境(調理ができる設備)が揃っていて、食事を作らない日があるのは何故かを聞きたいと思いました。あえてしない、または出来ない、仮に(極端な仮ですが)その理由が手抜きであったとしても説明する責任はあるのでは、と思います。
そうしないと、「毎食作るのが基本で、作らない日も発生することに、柔軟に対応できる」のではなく、「できるだけ作る機会を多く提供することが良い事(それが基本でふつう)」として(聞き手に)伝わってしまうのではと心配です。
ズレた基本の上に、‘意思尊重’とか‘柔軟に対応’とかがのっかると、すり替えられた話のように、おかしなことにはならないか・・・と思いました。違っていたらほんとにすみません。
これも極端な話ですが
「ここはお年寄りの預かり処。目的は家族の負担軽減。お年寄りには退屈をさせないよう、ゲームや趣味の道具を用意しています」という考えの通所サービスが「高齢者の幼稚園」的な空間であることには、あまり違和感を感じません。
根本的な考えに疑問を感じたら(間違えに気付いたら)、大きく変えられる可能性があるのはむしろ、こちらの方ではないかと思えます。
ばーばらさんへ
ステキな問題提起をいただき、ありがとう。ちょっと考えてみますね。お時間をください。
おむつ交換の時の「暴力・暴行」。
抵抗を行う側の視点を理解すれば「暴力・暴行」では無いんですね。
すべての分野で言える事ですが、提供される側の視点を持つことが大切だと痛感しました。
今日、知り合いのお婆さんが入院されたんで見舞いに行くと大腸がんで人工肛門になったと聞きました。
凄く寂しそうに話されました。
人工肛門を作られた後の社会復帰に時間がかかるとか、社会復帰が難しいとか情報が入ってきているようで・・・。
「人工肛門は楽ですよ」と笑顔で答えると少しご立腹で「先生もそう言ってたけど人工肛門になった本人にしか分からんとよ!」
その【本人】は私もそうなんです。
たまたま、病人側の視点を持っていたんでストマーグッズのお話や、年も倍くらいの先輩に心構えを偉そうに話しておりました。
お誕生日、本の出版、奥様のご懐妊おめでとうございます。
因みに我が家にも3人目が妻のお腹にやってきました。
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