重ねて「帰宅欲求・帰宅願望」
帰宅願望にある方への対応は?
帰宅欲求のある方への対応は?
専門職の認知症研修会で事前に質問を書いてもらうと、たくさん出てくるのが帰宅欲求や帰宅願望への対応策である。
今までに何度もあちこちに書いてきたが、改めて書いてみることにする。
そもそも僕らは何で家に帰るのか。
受講生の人たちに聞くと「家族がいるから」「家が自分の落ち着くところだから」「家でやることがあるから」といったような答えが返ってくる。さらに掘り下げて「家族がいなけりゃ帰らない?」って聞くと「???」となる。
つまりのところは、理由はどうであれ家に帰るということがわかり、突き詰めれば突き詰めるほど、何で家に帰るのかの説明がつかなくなるということだ。
僕らは普段、家に帰りたくないときは理由(意味や目的)をもっても、家に帰ることに意味や目的を感じてなんかいないだろう。和田から「なんで家に帰るのか」と問われるから、あれこれ理由を語るが、普段はいちいちそんなことを考えて帰ってなんかいないはずである。
さらに言えば、僕が質問をして返ってきた答えに「欲求だから帰るんですよ」とか「願望だから帰るんですよ」と答えた人は一人もいない。必ずそれなりの意味や目的を語り出す。
よーく考えると簡単なことなのだが、どういうわけか僕らは巣(自宅)を構え、その巣を拠点にして、巣の中と外の活動を組み合わせて生きている。巣の外にいる意味や目的が終われば巣に戻るという習性(と言っていいかどうかは?だが)をもっている動物なのだ。
巣の中でだけ過ごしていては生きていけないので、巣から意味や目的をもって外に出かけ、その意味や目的が終わると、あるいは巣の中に意味や目的をもつと、巣に戻る。だから巣の中で意味や目的が終わっても、巣から戻っていく巣はなく、巣に留まるのだ。
わかりやすく言えば、生きていくためには生きていくことに欠かせない「もの」が必要で、その「もの」を調達するにはお金が必要となる社会システムをもつわが国では、そのお金を調達するために巣を出る。お金を必要としないシステムなら、お金は必要なくても食うものは必要だから、狩猟や耕作に出るのだ。また、巣の中に籠もることもあるが、それも生きていくために欠かすことができない「もの」(例 食材)がストックできていればこそである。
そういう目でみれば、わが国の国民の圧倒的多数は、路上で暮らす人まで含めて巣をもち、その巣を拠点に生活をしていることがわかるし、巣の中だけで生活を完結している人はほとんどいないし、巣に戻らない人も少数なのではないか。
ということは、巣に戻るという帰宅行動は、欲求とか願望といわれるものではなく、また周辺症状といった症状でもなく、巣の外にいて、そこにいる意味や目的を失えば家に帰るのが普通のことであり、いつまでたっても家に帰ろうとしないのは普通じゃないことになる。その証が、僕らは家に帰ることを帰宅欲求だとか帰宅願望だなんて思っていないということだ。
その視点で考えれば、デイサービスであれ、グループホームであれ、特別養護老人ホームであれ、そこに来ている婆さんにとって、そこにいる意味や目的を実感できなければ、家に帰りたいと言うのは当たり前のことである。
また、自宅じゃないところに居て、自分がそこにいる意味や目的を感じ取ることができず家に帰りたいと言うのは、自宅じゃないところに居るということがわかる能力をもっているということであり、家に帰りたいと言えるのは能力があるということの証であり、その能力を維持したり取り戻せるようにするのが僕らの仕事である。
その意味では、いつまでたっても家に帰りたいと言い続けられるように支援していくのが仕事ともいえるのだ。
帰宅欲求・帰宅願望=家に帰りたい・家に帰りますというのを問題視したり症状だというのなら、日本中、世界中の人間が問題人であり病人だということになる。
もうそろそろ、帰宅欲求・帰宅願望と、僕らが日常的に使わない言葉の中で認知症を語るのは止めようではないか。
家に帰りたいというのを特別なこととみるのは、特別な人が言っているからという捉え方であり、特別な人が言っていることは「家に帰りたい」という普通のことまで症状として扱うということになる。
婆さんの言うこと・やることを認知症のほうから思考・考察すると、やることなすこと認知症の症状としてみてしまうのだろう。病からものを思考・考察する医師はその典型かもしれない。
生活支援の専門職である僕らにとって、認知症から思考したり考察するのではなく、人のほうからものごとを思考したり考察できるようになることが、大事なことではないだろうか。
一考を。
コメント
私は介護福祉士をしています。認知症を抱える祖母さんを頭に、2歳の曾孫を抱える10人家族です。
デイサービスに週3回行き、介護2です。
デイサービスではいたって真面目で帰りたいとは言わないのです。自宅に戻ると、変わるんです。主な介護者は娘です。
ある時、自宅にて「家に帰る」といい、荷物をまとめました。
娘(私の母)はパニックになりました。
その時、ふと感じた事は、家族がソワソワしていた事です。どこかに出かけると言ったり、帰ってこない。そんな言葉で急に変わってしまったのです。帰りたい場所が安定しなかったと気づき、私はあることをしました。祖母さん「ただいま」と言った時に、「おかえり」と返っきました。やっと家だと気づきました。
米寿の祖母さんに一日でも生きていく姿を教わりたいと思います。
徘徊・エスケープ・異食行為・不潔行為・破壊行為。。。
介護認定の調査や主治医意見書に並ぶ。。。
違和感がやっぱりあって。。。
当たり前に使われて、肝心な部分が感じられなくなるような。
先日帰りたい爺ちゃんと話をする。
帰りたい理由を聞いた。
「そりゃあお前、夕方になったら帰るやろ。特別家がいいわけじゃないぞ。」
ごもっとも。
仲間作りはちょっとずつちょっとずつ進行中。最近は家族の方も加わってくださる。
ありがたや、ありがたや。
先日、ケアマネ更新研修を受け、行政出身講師から認定調査の説明で「意味のない徘徊」と何度も言い。耳を疑った。悲しくなりました。
居場所を失わないように、支えたい、寄り添う介護を・・・と言いつつも現場では常に様々な出来事に翻弄される。
GHで生活しているお年寄りが、言いたい事を言い、時に相手を傷つけてしまう場面に出くわす。
そっと場面を変えたり、個別に対応したり専門性を必要とされる場面である。
ある日の食事作り中、我慢できなくなった職員からみんなの前でとがめられてしまい居場所を失ったお年寄り、泣き出しお部屋に閉じこもってしまう出来事があった。その後利用者同士の関係性で笑顔を取り戻し、ほっとした。
「人」として、介護者として、おごることなく、寄り添い、思いをチームで支えるをる事の大切さを改めて思い知らされた。
利用者の「力」に、助けられています。
お年寄りも私たちも仲間がほしいんですよね。
愚痴る場所がほしくて時々お邪魔してます・・お許しを・・・。
和田さん、みなさん、こんばんは。
お久しぶりのコメントですが、私も同感です。介護支援の仕事から無くしたい言葉が沢山あります。
徘徊・問題行動・異食・不潔行為・帰宅願望です。
どうして帰宅したいことが、帰宅願望なのかわかりません。誰だって家に帰りたいもの。当たり前だと思うのです。ウロウロしていると徘徊なのか・・・、歩いているだけなのに・・・。
道に迷って歩いている人は、みんな徘徊なのか?人が何かを探して歩き回ることは徘徊なのか?間違って食べてしまうことは、大変危険なことです。でも、この言葉が、その人を特別な人に仕立てている気がします。便のついたオムツをずっとつけていたら、誰だっていじるでしょ・・。それをいじると、さも、大変なことをしてしまったように扱われる。
なんか・・違う気がします。職員の謝罪の気持ちはないのか?気づけなくてごめんなさい・・・と、この言葉からは、あまり感じ取ることが出来ない・・・。
その人の気持ちには、なかなかなれないです。本当に難しいと思います。けれど、これらの・・・特別な言葉が、おじいさん、おばあさんを・・より特別な人の仕立ててしまっている気がするのです。
毎日職員の目を盗んでは外出される方がおられます。職員が外出に同行しようものなら石を投げ「付いてくるな!」と怒鳴る元気な婆さんです。時々行方不明になり、職員が探し回ったり、警察にお世話になったことも・・・・。
彼女に外出の理由を聞いてみたところ「アタシャ、家の中は退屈で嫌いだ・・外へ出たいから、出られるところから出てるだけ」
ごもっとも!!・・と感じてしまい、何故か笑ってしまいました。彼女が壊してしまった、窓の鍵・・彼女が乗り越える玄関門扉・
すごい運動能力だな・・と仏頂面の職員と感心しています。
まんまるさん、なんくるさん、みっちゃんさんへ
「アタシャ、家の中は退屈で嫌いだ・・外へ出たいから、出られるところから出てるだけ。」
「そりゃあお前、夕方になったら帰るやろ。特別家がいいわけじゃないぞ。」
「意味のない徘徊」
ええ話やなあ。わかりやすい。
婆さんたちの言い分は「理」にかなってる。ちゃんと目的があるのに、目的もなく歩き回る=徘徊なんて言われるのは、言いがかりもええとこ。
その点、行政出身講師の「意味のない徘徊」は日本語として「理」にかなってない。
いつも言っているが「婆さんこそせんせい」を表してくれた、お三方からのコメントでした。
日本中にこんな話が転がってるんやろな。
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