ふとしたこと
うちの事業所に厚生労働大臣が視察に来たときのことである。
僕は視察後、その事業所の責任者を叱った。滅多に「叱る」ということがない僕が、どうしてもスルーできなかった出来事があったからだが、それと同じ光景に出くわすことが多いので触れてみたい。
認知症になっても人が人として生きていけるように。
利用者・入所者・入居者が生きることの主役である。
いろんな言い方はあるが、「婆さんたちが生きることの主役であって、僕らはその人を支えているにしか過ぎない。」という、当たり前のことが当たり前のように多くの人の口から言われ出した。
僕もそう言い続けて来たし、うちの事業所の責任者たちもそう考えるようになり、そう言えるようになってきた。ところがその理と実践の食い違いが“ふとしたこと”に出るのである。
どういうことかと言うと、視察だから当然のように利用者が過ごす場所に案内する。デイサービスならデイルームへ、グループホームならリビングへ通すだろう。
そのときも責任者はデイルームに大臣一行を案内したのだが、デイルームで過ごす婆さんに事前に「こういう人が来るけど入ってもらってもいいですかね」と確認することもなく、大臣を入れるときに「こちら様はこういう方です」と紹介することをしなかったのだ。
仕方なく急遽僕が紹介したが、僕自身がよそ者であり見覚えのない奴だから、一行様を紹介したって「??」の顔である。顔なじみのある職員が紹介するのとはわけが違うのだ。
同様のことによく出くわす。
ある研修会に受講生として参加したときのことだが、カリキュラムに現場見学というのがあって、名の知れた、頑張っている施設(と紹介された)に連れられて行った。
連れて行かれた施設の責任者は、利用者に何ら説明をすることもなく利用者が過ごす場所に僕らを通し、利用者に僕らを紹介することもなかった。おまけに同行した研修主催者は、日ごろは「認知症の人の気持ちを大事にしましょう。」なんて言っておきながら、その施設の責任者に注意することもなく、勝手に写真を撮る始末である。
あるグループホームに招かれて遊びに行ったとき、その経営者は僕のことを職員に紹介した後、「どうぞ」と言って利用者が過ごす場所へ招き入れようとしてくれたが、僕は「いいです。それより家族宿泊室があるからそこへ通して」と言って、頑として利用者が過ごす場所へ入らなかった。
あとで職員さんたちとの懇談会があったので、経営者が同席していたのでそのわけを話した。
「あなたがたの代表者は、自分がつくった施設を僕に見せたいばっかりで、利用者に僕が入ることを説明して確認をとることを全くしなかった。」からだと。
あるグループホームを訪ねたとき、職員たち一同が座してご挨拶をし、客人である僕らを迎え入れてくれた。
この光景だけを見れば、おもてなしの精神が職員によく行き届いた施設だということになるが、その職員たちの後方のリビングで過ごす婆さんたちはほったらかされたままである。客人のことを紹介することもなく玄関先で盛り上がってしまっていたのだ。その光景を目にした僕は、中に入ろうかどうしようか迷ってしまったほどだ。
これは、どこの施設がどうこうという話ではなく、うちの職員たちも含めて、口では「生活の場」だとか「利用者主体」だとか言ってはいても、こういうところで実践の下支えになる「ものの見方・考え方の定着度」が見え隠れする。
かく言う僕も、ある視察を招き入れたときに「居室を見せてほしい」という要望に応えるほうが先に立って、ある利用者の居室をちらっと覗いたところをその部屋の婆さんに見られてしまい、「あの人、私の部屋を覗いている」と怒らせてしまったことがある。そのときは平身低頭で謝りまくったが、僕みたいにかなり意識をもっていても、ふとした瞬間にそういう過ちを犯してしまうのだ。
自分がグループホームの責任者をしていたときには、○○省の視察であれ、町内会の会長であれ、入居相談者であれ、実地指導であれ、理事長であれ、優先順位の一番が婆さんであるときは、暑かろうが寒かろうが玄関の外で待ってもらっていたほど実践できていたのにである。
現場の実践は、「理への到達」の通過点でしかないのだが、その理の整合性がとれていない場合が多い。
婆さんは認知症があったって一人の人間なんだからとか、その人の意思を尊重することが大事だと言っているにも関わらず、意思が反映されない給食を出していたり、時間がきたら機会的に居室に誘導して寝かせつけようとするなど、そこに矛盾さえ感じていない場合が多いのである。
それも「もうどうにもこうにもしようがない=しょうがない」というところまで詰めきって「意思の確認や反映をしない」というのなら理にかなっているが、自分たちが言っている理と自分たちの実践に矛盾があることに気づけない場合が多いのだ。
それは「こう考えて、こうしなさい」と、理の実践を誰かに強要させられて、できているつもり・わかっているつもりになっているだけで、理を自分自身の中でつめていないからではないだろうか。だから、この点は理にかなったことができても、あの点では理に反することをしてしまい、その矛盾にさえ気づけなくなっているのではないかと思う。
理にかなった実践は、理を理解して自分のものになっていればこそ整合性をとりながら実践に応用化して活かせるのだが、他人の理を鵜呑みにして妄信的に実践すると、そのことは習得できても、応用が利かず、平気で同じ理に反することをしてしまうだろう。
こう考えると、うちの職員を叱ることになった出来事は「僕の姿」であり、職員たちにではなく、僕の「伝え」に問題があることは間違いなく、こうした“ふとしたこと”から本質的なことを考察して、それを課題化してみんなに理を伝えるのは僕の仕事であり、僕の仕事ができていないことの証なのだ。
理と実践の検証は永遠に続く。
コメント
そうです、続きます。あきらめない、あきらめないと何度も噛み締めています。
今さらですが、先々週、職員会議で、利用者主体とは?をスタッフの言葉でまとめてもらいました。それを問い、考えてほしいことがあったのです。
理念・事業計画には書いてあるが、利用者の一番近くにいる職員が理解していなければ、絵に描いたモチ。介護スタッフの思い・気持ちと行動が伴っていないことが多いのです。
言葉では利用者に寄り添いたいと言っているが、現状タイムスケジュールが気になり、利用者は置いてきぼり。そんな利用者に気づいてもらいたいと、その場でこれはどうして?どうしたらいい?と聞くと、私(がん)の利用者主体と現場の利用者主体は違うんですとショックな言葉を聞き、絶句。
スタッフの利用者に寄り添いたい気持ちを実践できるように、そのために何をしたらいいのか?何が出来るのか?を考えています。
利用者がどうしたいのかを理解して、それを受け、その時どんな支援が必要かを考え、実践できる人が増えるようにと前進あるのみ。
毎週ココに来るのをを楽しみにしています。
介護職の方には理想と現実のはざ間でもがき、悩み、できないから辞めていく…そんな人が多いのではないでしょうか。
でも実現出来る場が目の前にあれば、諦めずに少しずつやって行きたいと思います。
呼び鈴が鳴ると、入居者が玄関に向かうことがある。この時必要なスタッフの手が、どの位置・時点かによっては・・・
「こういう人が来たけれど、中に入ってもらってもいいか?」という言葉が入居者から→他の入居者やスタッフにかけられる場面もありました。
「入居者が主体」「基本確認する意識」に変わりはないけど、それをもとに行う作業は変化したり逆さになったりもする??行った作業に根拠を説明できないものに、おおいに反省すべきものがあるみたいです(私の場合)
素晴らしい話や立派な考えに触れた時こそ疑ってかかるくせがついた。
うたぐってうたぐって、ああでもない、こうでもないがあり、はじめて自分の財産になるんだと思う。納得できるまで、言い合えたりするのは、仲間である証のひとつかな。
証といえば。鍵をかけないのは、そこに専門職が存在する証であって、鍵をかけないことが「売り」であるはずもないし、ましてや「鍵をかけないが良い事」を立証するために人(ご利用者)がいるわけではないと思うんです
わださん、気づかせてくれて感謝します。でも「ふとしたこと」を自分に置き換えてみなくても自分でも気づいていたことでした。
今は、管理業務に追われ入居者とかかわる時間ができないから仕方がない、余裕があれば本当はできるから今はしょうがないと言う考え方が支配していたようでした。理への実践の食い違いに気づいていても余裕が出来さえすれば・・そのうちに・・・・
以前、テレビで、今は亡き曹洞宗第78代貫首宮崎奕保禅師が「教へとは実行すること」と言われていました。
わださん、また、教えていただきました。
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