不可解な「どこまで」
「グループホームではどこまでその人を支えるべきなのでしょうか」
といった質問を今でもよく受けるが、そもそもそういう考え方がずれているのではないかといつも思う。
そもそも支援とはどういうものか。この話もそこにつながる。
看取りだとかターミナルだとかよく議論されるが、そもそもヒトの人生ロードに、「ここからが看取り、ターミナル」と線引きをすることに疑問を感じてしまう。
なぜなら、死の時期を宣告されていようがいまいが、ヒトには等しく「いつ死んでもおかしくない」という「死の絶対」があり、線引きはそのことを脇に置いた話になっているからだ。合わせて、ヒトはいつ・どのように壊れるかわからないという客観性をもっていることから考えても、線引きには無理があるのではないか。
死は1歳の子どもであろうが、54歳の和田さんであろうが、87歳の婆さんであろうが等しくある「絶対」で、その「絶対」は、ヒトの人生ロードのどこかの地点に100%存在している。
つまり、ヒトは生まれたときからすでに死への道を歩き始めているということなのだが、そのことに気づけていないのか、気づけていても触れようとしないのかはどうあれ、その事実を思考の入り口にもっていけば、特に高齢者の場合は顕著に「いつも看取り、いつもターミナル」と考えるほうが自然で、そう考えると実にスッキリ整理できるのではないか。
そうは言っても、死の時期が明らかになったことそのものは特別なことではある。特別な感情や特別な支援への思考をもったとしても不自然ではない。
でも、いつも次の瞬間に死があることを前提に考えている僕にとっては「いつもどおり」のことであり、「どこまでその人を支えるべきか」は明確で「望まれるうち、支え続けられるうちは支える」という答えしかない。
だからグループホームを開設した当初はいろいろと考えたが、「そうか」と吹っ切った後は「どこまで」なんて考えたこともないし、「日焼けした寝たきりを目指そうぜ! ベッドのまま買い物する婆さんを目指そうぜ!」なんて「どうしたら最期まで人としての暮らしを支えられるか」だけをひたすら追求してきた。
今は「支え続けられる仕組み」をテーマとして思考しているから「線引き」でものの組み立てを考えるが、基本は「できるか・できないか」だけのことだ。
また、必要なことへの支援の量と質は、その人の状態によって変わってくるのは当然で、その人に応じた必要な支援を行えるかどうかが「ここにいられるかいられないか」の基準となる。
だから「もう余命あとわずかだからここで最期まで」と考えることなどなく、あとわずかであることが明確になっていようがいまいが、まずは誰に対しても「最期まで支援し続ける」と考え、あとは人生ロードのどの地点であれ、どんな状態であれ、「必要なことは何か、その必要なことを提供できるか・できないか」そう考えて判断するだけなのだ。
その意味では、グループホームにしても特定施設にしても、その制度がどうあれ、その事業所が置かれている環境がとても大事で、その環境によって「できること・できないこと」に大きな違いが出る。
婆さんが同じ状態でも、A地域にある事業所とB地域にある事業所では、A地域では退居してもらわざるを得なくてもB地域では大丈夫ということがあるが、それは当然のことだ。
それは自宅でも同じで、どんな家族関係か家族構成か、どんな経済状態かなど、婆さんが置かれている環境によって決まってしまうのだ。
これはグループホームだけの特別な課題ではなく、どこで住んでいようが何を望もうが「必要なことは何か」「必要なことを提供できるか・できないか」「提供できるところはどこか」という整理をするだけである。
そう考えると、経営母体法人の形態によって「できること・できないこと」に差が生じやすいことが見えてくるが、どの法人形態のグループホームであれ、もっと言えば自宅でも特養でも特定施設でもグループホームでも、生活支援の場に「必要なことに応じて必要なことを提供する環境」を整えるのは、国民に対する国の責任である。
経営者が医療職のグループホームなら得・安心といったようなことでいいのか、特養の介護職員はこれまで医療行為とされていたことを行うことが許されるのにグループホームの介護職員には許さないというようなことでいいのか、国民にとって必要なことは居住や経営法人の形態で発生するのではなく、ここまではここ・ここからはあそこと線引きできるものでもないはずで、医療機関へ入院する以外に道がない場合を除いては、どこに住んでいても同じように「必要なこと」として提供されるようにするべきである。そうしないとますます歪んだ仕組みになってしまう。
「必要なことを必要に応じて」ということになればきっと「グループホームでどこまで」なんていうおかしな話にはならないし、真摯に向き合う介護職員たちの疑念もなくなってすっきりし、自分たちの事情や都合で婆さんを放り出すということの口実もなくなるはず。
もっとシンプルな仕組みにしないとね。
【番組案内】
以前ブログで紹介した和田がよびかけ人になっている「お福の会」の仲間がテレビ番組に出ますので、ぜひ見てください。
番組:福祉ネットワーク
この人と福祉を語ろう
「認知症の人と家族の会」高見国生代表にきく。新時代”を切り開いた30年
放送日時:6月21日(月)
20:00~20:29 NHK教育テレビ
再放送:6月28日(月)
12:00~12:29 NHK教育テレビ
コメント
GHで重度化した入居者さんのことを「特養に移った方が本人も幸せだと思う」というような話しは良く聞きく話しです。
一方、正直、手のかかる入居者さんでも頑張って支えている素敵なGHの話しも沢山聞きますが。
中には、認知症が重度化して手がかかるようになった入居者さんのことを「あの人はもう、特養の範ちゅうだよね」なんて言う人もいるそうです。
それを聞いて、私はとても悲しい気持ちになりました。特養の範ちゅうってなんですか?と聞いてみたいです。
特養に勤めた経験のある私から見ると、日中でも100人をたったの(多くても)12~3人でしか看れない特養と、(しかも彼方此方から断られた方や重度化した方など正直手のかかる人が多い)
日中なら9人を3人で看れるGHとでは圧倒的にGHの方が手厚く、納得のいくケアが出来る筈だと思うのですが…。
「特養には機械浴があるから…」「特養にはナースが居るから…」「GHは集団生活が出来なくなった人は…」なんて言われますが、GHにはそれらに負けない良いところが沢山あると思うのです。
私の感じ方からすれば、「GHで看れないなら、そこらの特養では尚更みれないよ」と思うのです。(もちろん特養の中には素晴らしいケアをしているところも沢山ありますが)
インターネットで調べたのですが、GHの本場スウェーデンでも何年も前に同じ様な議論(GHは通過施設か終の棲家か)があったと載っていました。
自分の価値観に何もかも当てはめようとして、勝手に線引きをしたり、レッテルを貼って納得していることに嫌悪を感じ、できるだけ「ただよいながら相手とゆれる」ことを求めながら年寄りと生活をしている私としては、明快な発言に共感します。
ただ、地域で「認知症サポーター養成」の講座を頼まれることも多く、「認知症への理解」を求めることがかえって「認知症」に特化して、レッテルを貼ることにならないかと苦慮することもあります。
このたび銀行からの要請で講座を予定しています。私としては具体的に銀行内でどんな「問題」が起こっているのかを教えてもらい一緒に考えていこうと思い、担当者に事前の情報提供を申し出たところ「一般論でいいです」との返答でした。せっかく若い人たちと認知症について考える機会をもてるにも係らず、通りいっぺんな内容にはしたくないと考えていますが、よいアドバイスがあれば、お教え願えませんでしょうか。
一週間前にグループホームで一人の方の最期を看取りました。家族の方も慣れた場所で最後まで生活することを望まれ、私たち職員もご本人と家族の思いに後押しされる感じで、「やって見るか!」と、踏ん張ってみました。
幸いまめな在宅医にも恵まれ、余分な延命治療は避け、口から本人が食べたいと思う物を味わったり、含んでみたり・・それでも徐々に口からも入らなくなり、静かに眠るように(終末期のごろごろする苦しそうな呼吸もありませんでした)夜半過ぎになくなりました。
職員個々には、「他人の死」に対する恐れの思いが強かったり、ご遺体になったらその後はどうしたら良いのか・・・等色々な思いがあったようですが、私個人としては死亡診断書に堂々と「老衰」と書かれ無事葬儀が終わったことに「支えて良かった」という気持ちが強くあります。
必要なときに必要な支援を考え工夫する。当たり前のことですが、チームで動くときは結構難しいですね。
和田さん、皆さん、こんばんは。
どこまで支えるのか・・・、どこまでって・・・どこまでなのか?じゃあ、どこまでならいいのか?それは誰が決めるのでしょうか?私たちでしょうか?
グループホームにおいてのその方の思いを御家族の想いを叶える限界は確かにあるのかもしれません。でも、特養でも出来る事はあります。そして、特養にいらっしゃる御利用者の方でもグループホームに行ける状態の方、沢山いらっしゃいます。でも、金銭的な事が絡んでいるのでしょうか?特養にいらっしゃいます。
本人にとってはグループホームだろうが、特養だろうが実のところ関係ないのかもしれません。その方が納得できれば、場所は関係ないのかもしれません。それに近づける努力をするのが支援する人の力ではないでしょうか?
自己満足介護をしていた時は(今も絶対にしていないとは言い切れませんが)、どちらかというと納得がいかないことが多く焦っていたかもしれません、でも最近は、その人が人生を決めるんだと、それを私たちが支援するのだと思っています。
突き詰めて行けば、グループホームだったらここまで出来るかもしれないとかあるかもしれません。でも、現実は悲しいかな御家族の意思なのです。御家族が決められるのです。お金を握っている方が決めています。私たちは、そこにアドバイスは出来るでしょうが、最後は御家族の意思なんです。
では、私たちに出来ることはなんなのか。精一杯その人の想いを聞き、その人の気持ちに添った支援をすることなのだと思っています。正直、もう少し時間があれば出来ること沢山あります。でも、今出来ることの範囲内で、ご利用者に寄り添い、その人の気持ちに添った支援をすることだけです。その人が少しでも自分で何かを選んでくださることが大切なんだと思います。
「出来る範囲で・・」素敵な言葉だと思います。その人が、その人らしく最後を迎えられるように支援する、それで良いのではないでしょうか?
決めるのは本人といいたいところですが、私の周りでは御家族ですね、そういう風に動いている家族の話を良く聞きます。でも、その中で、限られた中で精一杯・・その人の気持ちに寄り添っていけるよう支援したいと思っています。
現場版:‘必要なことを必要に応じて’を考えさせたれた一件。
排泄介助中にて
Aさん(利用者)
「嫌なことをさせてごめんなさいね。こんなに手 のかかる人は他にいないでしょ?」
Bさん(ヘルパー)
「いえいえ、もっともっと手のかかる人は他にた
くさんいますよ。Aさんは全然手のかからない ほうです。」
という会話があったことを、Aさんは他のヘルパーに報告(叫びと受け取った)してくれました。
「手のかからないあなた」はその観点からすると、「状態変れば、私にとって手のかかるあなた」と言っていることになる。
決して傷つけようと発した言葉であるはずもなく、相手を気遣う気持ちから出た言葉であることに恐さを感じます。
Bさんヘルパーは温和で私が思うにも、優しい人です。優しいBさんの人柄に+必要なことを必要に応じて・・・に基づいて判断し行っているという専門家ヘルパーとしての意識があったなら、同じ問いかけに、「自分でやりたくてもできなくて困っている(辛い思いをしている)人はたくさんいます。そのひと達のために私達はいるのだから」に近い返答になるのではと思います。
私自身に‘手のかかる・かからない’的な感情が100%ないといえば嘘になります。自分への戒めもこめて、心に留めてある一件です。
夜勤ヘルパーさんへ
おっしゃる通りですね。「手のかかる入居者さん」とは嫌な表現でした。コメントの文章、恥ずかしいです。本音がにじみ出てしまうのしょうね。いめしめます。
おかげさまで、人は生きていると感じられるエキサイティングな日々を過ごしています。
私たちは、一般的に死に直面する可能性の高い方の支援をさせていただいています。この仕事をすることで、たくさんの方々の生きざまや死にざまに出会い、たくさんのことを教えてもらっています。そんな仕事でありながら、「ここでは死んでほしくないね。」という事業所責任者、「あとで何を言われるか分からないから家で死んでほしくない。困る。」という家族。誰でも死を迎えるはず。個々に聞けば、できたら家で家族に見守られて最期を迎えたいという意見が多いのに。。。
病気になること、怪我をすること、障害を負うことは人生終わりではない、ダメ人間になることではないと思っています。死ということも排除されるものではないと思っています。
母息子。母が老いていくこと、死が近いことを認められずパニックになっている息子さん。彼女には人生をこのまま生ききってほしいし、息子さんには彼女が逝ったあとも自分の人生を生ききってほしいと願い関わっていますが、激しい感情を受け止めることは、自分もしんどいです。関わる方々も丁寧に向き合ってくださっているのでとてもありがたいです。
和田さん、失礼します。
夜勤ヘルパーさんへ
私もそういう思いをもったことあります。手がかかると言った事はありませんが、心の中で思った事、何度もあります。
いつも自分の事ばっかり考えている御婆さんに対してイラっとしたこと何度もあります。でも、この仕事は愛がないとご利用者に対する想いがないとできない仕事ではないかと思います。だけれど、私たちは神様ではありません。だから・・・人間だから・・それも、私なんだと思っています。人間だから完璧ではないのだから仕方がないのだと・・・。
寺内 美枝子さんへ
ありますよ私もイラっと感じること。仕方がないというか、ふつうのことだと思います。
この状況の“どこ”にイラっを感じているのかを時々思い巡らせてみることは、必要だと思っています。「イラっ」という文字を「嬉しいっ」に置き替えてみても同じことが言えると思っています。自分へのいましめ(私もひら仮名にしよっ)とは、そんなところです。
手のかかる利用者さんにどれだけ手をかけるかと、反対に手のかからない利用者さんにどれだけ目や気や声をかけるかが大事かと。
どれだけというのは、その人に必要な量と質が明確になっての『どれだけ』。
手のかかる利用者さんに手をかけている時、他の利用者さんはどうしてる?
イラッとしてるときって、ヒヤッとしたり、ハッとすることも同時にやってきませんか?
手がかかる利用者と思っていること、イラッとすること、色んな考えはあってあたりまえかもですが、そんな時はだいたい利用者さんも私達をイラッとしたり、嫌だって思ったりしてるんです。仕方ないかもしれませんが、仕方ないで完結されるなら、そこはプロなら積んで行っているものが足らないような気がします。
今回のテーマの最後の『シンプルな仕組み』に同感。看取りにかぎらず、仕組みはシンプルにしてほしい。ケアマネをしていると、短期入所ではできるけど、訪問介護ではできない、反対に訪問介護ではできるけど、短期入所ではできない…なんていう事にぶつかります。在宅生活の継続を支援する中では、大きな課題です。せめて、できる状態に近づく努力が必要だといつも思います。
でも、仕組みが複雑だと、どうにもならない。『シンプルな仕組み』が解決すること、結構多いんです。
気(目)を離さないこと、は全ての利用者に等しく絶対的に必要なこと、その中で‘手を貸す’とか‘声をかける’など必要に応じた量や内容のサービスが提供されるべきだと思っています。
「必要なことを必要に応じて」のシンプルな仕組みはきっと重要。だけど現場に携わるものがそれを理解しないまま仕組みだけが変ったら、‘手のかかる人・手のかからない人’的な捉え方はますます広がるでしょうね。
研修や教育に力を入れるだけでもだめだと思う。和田行男さんの本を読めばいいってことだけでもないし。ど素人の新鮮で素直な感覚も大事なら、経験も大事で、何にしてもそこから学ぶ姿勢が必要なんだと思います。
手がかかるという「言葉」や「手がかかると思うこと」に違和感をもっているんじゃないんです私。
経験を積んで、素晴らしいケアをしている(と見える)プロが介護を語る時、何の悪気もなくあたりまえに使っている‘手のかかる・手のかからない人’的な捉え方をしている(きっと自分も含めた)介護の世界に違和感を感じます。もし「必要なことを必要に応じてだから、この人にはこの量と内容のサービスを提供しています」て言う高性能介護ロボットがいたら、プロの視点という意味では、よっぽど上だと思う。
思いあふれて恐い文章になってしまいました。ごめんなさい。思いやる気持ちがあって、優しくて、がまん強くて、勉強家で。それがこの職に求められているなら、本当に私は向いていないと思います。
和田さん、失礼します。
私にとっての課題は、その「イラっ」とした時、その気持ちと自分の中で、どう対処するかですね。私は、その方の生きてきた過去を振り返ったり・施設の中での、その人の居場所や一日の過ごし方など色々と想像したりします。
ひょっとしたら淋しかったのかな?甘えたかったのかな?=気にかけてほしかったのかな?と色々なことを振り返り、そして、自分の中にあるイライラと葛藤します。イラっとする事をけして仕方がないという言葉で片付けているわけではないのです。
イラっとした自分の気持ちを受け入れ自分を否定することなく、これも自分なんだと思っています。そして、そのときの自分を受け入れる気持ちとして人間なんだから完璧ではないんだから仕方がないんだと思ってはいます。
夜勤ヘルパーさんの意見に同感した文章をコメントしたつもりだったのですが、伝わりづらく申し訳ありません。
コメントの言葉が足りませんでした。
ほんとにすみません。
私はチームで何度も意見のやりとりをしたり、何度も本人さんや家族の意見をさりげなく、でも、本音を聞くようにしています。
スタッフだけでなく、家族や本人からだって、『手のかかる』との言葉がきかれます。
手がかかるって、私は大事な事だと思っているんです。『手』をかけているんですから。
『仕方ない』で終わることなく、チームで仲間でよく話し合い、解決策を探す努力は大事。
一人のスタッフが一人でプロになるわけではないですよね。同僚や上司や家族や本人と悩んで答えを出して、また困ったことがあったらまた悩んで…。その中で、この人なら信頼できる、任せられる、何でも相談できる、そんな関係を築けたら、その人にとってのプロのスタッフなのだと思うのですが。
夜勤ヘルパーさんへ
思いやる気持ちがあって、優しくて、がまん強くて、勉強家で、そんな人は神様くらいです。いません。人生を修行に例えた人がいましたが、私たちは未完成だから、ここにいるのではないでしょうか?
みんな、未完成で絶えず自分の中にある色々な感情と向き合う努力をします。それは、御利用者を思うがゆえだと私は思います。
私は今回のことで、自分は、まだまだ、その感情と向き合えていないんだと、今回の御利用者の行動、もっと突き詰めて考えられるなと反省しました。
「高性能介護ロボットがいたら、プロの視点という意味では、よっぽど上だと思う」
私たちにあって高性能ロボットにないもの、それは「こころ」です。私たちは心があるから成長します。御利用者の態度から悲しい思いをさせてしまったかな?辛い思いをさせてしまったかな?淋しかったかな?笑っていたら楽しかったかな?と察することができるのは、私たちに「こころ」があるからです。相手の気持ちを自分に置き換えて考えられるからです。
感情がないロボットには御利用者の立場にたって物事を考える「こころ」がありません。あるのはプログラムだけ。そして、ロボットは成長しません、プログラムを変えるだけです。それも、人間が作るのだから高が知れています。私たちは、御爺さん・御婆さんを想うがゆえに自分の中に生まれた感情と向き合って、そして、だからこそ、成長するのだと思います。
私は、介護支援の仕事は、人を想う…その気持ちさえあれば、本当に十分すぎるぐらい十分だと思います。
ちょっとした集いに参加している心持ちから想像は度を超して、もし同じ屋根の下に暮らす私達おばあちゃまだったら、というオチを着けたくなりました。。。!(失礼しました)
みなさんありがとう。感謝。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。