やりがい
やりがいとは何か。生きがいにも通じる「やりがい」についてちょこっと触れてみたい。
みんなは、耳から「やりがい」と入ってきて、脳ではどんな文字に変換をしているだろうか。
学生の頃に「やりがいとは何か」ということが気になり、自分なりに一生懸命探っていったことがあったが、「がい」を勘違いしている大人が多いのではないかということに気づいた。
その後社会に出て、僕が学生の頃に感じたことが間違っていないように思ったときは、それなりにショッキングであった。
職場のこと、仕事のことを語り合う人たちの話をじっくりと聞いていると「やりがいのもてる職場」「やりがいのある仕事」を語っている人の中には「がい」を「我意」と変換して思考し、「やり我意」を求め「やり我意がもてない」と愚痴っている人が多いことに気づく。
やりがいの「がい」を「我意」で変換すると、「自分ひとりの考え。自分の思うままにしようとする気持ち。自己中心で独断的な考えや意志を押し通そうとするさま。自分ひとりの考えを押し通そうとする気持ち。」ということで、要するに「やり我意のある職場」とは、「自分にとって都合のいい職場」ということになり、あくまでも自分のことでしかないということだ。
逆に言えば、「ここはやり我意がある」と言っている人に「何でそう感じるのか」と突っ込んで聞くと、何てことはなく「休みが思うようにとれる」とか「人の悪口を言う人がいない」といった「自分にとって都合のいい環境」程度の話しか聞こえてこないことがよくある。
いま坂本龍馬がテレビ放映されているが、坂本龍馬たちの行動を「自己中心で独断的な考えや意志を押し通そうとするさま。」と思う人は少ないのではないか。
僕は、社会科の授業を通して知った彼らたちからは「この国にとって」「民にとって」と考えて行動していたと思えて、そこから「彼らの「がい」は「我意とは明らかに違う」のではないか」と考え、僕なりに「がい」には「我意」と「甲斐」があると勝手に解釈してきた。
そんなことを考えてきたせいか、やりがいを語っているこの人たちの話を耳にすると、この人はどんな「がい」を求めているのだろうかと考察してしまう癖がついてしまっている(和田には気をつけてね)。
そんな僕がとっても嬉しくなるときは、社会的な意味を感じて何かに取り組んでいる人々から「やりがい」という言葉が聞けたときだ。
そんなことに取り組んでいる人たちだって「我意。自分の思うままにしようとする気持ちの延長線上にその取り組みがあるに違いない」と言ってしまえばそれまでだが、僕にとっては明らかに「がい」の違いを感じるのだ。
幸いなことに僕の周りには「やり我意」ではなく「やり甲斐」をもって挑んでいる人たちがいっぱいおり、その人たちからたくさんの刺激を受けている。
その人たちは決して自分のことしか考えることはなく、また不平や不満を口にするばかりではなく、寝食忘れて社会的な「甲斐」に挑んでいる気持ちよさを感じる。
だから愉しいし楽しい。
『大逆転の痴呆ケア』が出版される前に知り合ったヤツで、僕のことを「僕、和田さんのこと大嫌いです」と丁寧に言ってくれたヤツがいる。ヤツと久々に会って話をしたら、ヤツが「やりがい」という言葉を発したので、超久しぶりに「我意」と「甲斐」を思い出した。
ヤツには会ったときから「甲斐」を感じ、ヤツには嫌がられたけどストーカーのようにつけ狙い、いつかはこいつに思い切り社会的な仕事をしてもらいたいと偉そうに勝手に思ってきた。
そヤツともうひとりの「甲斐をもった男」と引き会わせ、ヤツと男と僕の「甲斐」を「開花」させるための会談を行ったが、この「三人甲斐談」は展開のある実り多きものだった(ワクワクどきどき)。
また一歩「甲斐段」を上がれたことに感謝し、最近の「不甲斐無い自分」を奮い立たせることができそうである。
お二人さん、ありがとう。ふるまってくれたお嬢さん、甲斐談に華と料理、おおきにでした。
追伸
私ごとで恐縮ですが、携帯電話を紛失して多くの皆様にご迷惑・ご心配をおかけしていますこと、お詫び申し上げます。今週中には復活できそうです。
コメント
会社や職場を選ぶ際、多少なりとも‘条件’は気になるけど、‘やりがい’は別物かなと思います。どんな仕事でも職場でもやりがい(甲斐のほう)があるかないかは、自分しだいだと思うし、人に求めるものとは違う気がします。
みんながやりがいを見出せるように働きかけるのも、またやりがいのひとつかな・・・
こまさん
同感ですが、ただ思うのは、人間は自分が置かれている環境との相関関係で生きていますから、自分だけでやりがいをつくりだす・感じられるようにすることは難しいのではないでしょうか。
同感できるのは、「どんな環境の中でもやり甲斐をもつ・感じることはできる」と今の僕は思えるからです。
でも今の僕がそう思えるのは、僕のおかれている環境が恵まれているからだとも思っていますので。
やり甲斐って、人に求めるものでも、人に強要するものでもないと思っています。でも、自分が何かしらやり甲斐を感じると、単純に分かち合いたいと思ってしまいます。悪い癖なのかもしれないけれど。
こまさんへ
人に求めるものでも、人に強要するものでもなく自分がもつものだと僕も思っています。
ただその自分は1人ではなく、自分を取り巻く人たちとの相関関係の中にいるということです。
こまさんが言う「分かち合い」は僕が『大逆転の痴呆ケア』の中で書いた「響き合わせ」であり、環境というのは、自分は誰かに「響き合わせられている」ということだということで、それが自分に様々に影響を及ぼしているということではないでしょうか。
だから人は他人に自分を語り、他人の語りを聞き昇華していくのではないでしょうか。
毎朝の引継ぎ時によく和田さんのブログから感じ取ったことを話しています(勝手にごめんなさい)
今、スタッフの個人面接中でやりがいについても聞いてみました。「利用者さんの笑顔」が多かったです。私、利用者が自分の苦しいことをぶっつけてきたり寂しいと言って泣き出したり、訳わからんこと言ってこられてなんじゃらい???なんて考えているときもそうじゃないかなって思います。そして利用者の事でスタッフどうし、必死になって意見ぶつけ合っている時もです。
また和田さんから刺激受けたいです。京都には今度いつ来はります?
先月、19日行かせて頂きとても良かったです。もっと大勢の人に聞いてもらいたかったです。3月大牟田の取り組み知り、羨ましく、先月その影のご苦労知り。また、全国の認知症のかたや家族支える取り組みされている方々にまさにやりがいある活動とおもいます。
先週のかかわり、ですが、関心もってかかわって受け入れてもらえたときのやったあ!感。好きです。療養型でかかわれなかったと思ってましたが、思い出してみると スタッフ同士やりくって時間つくってました。せいぜい外来玄関外の池の鯉見に行き風にあたりながら過ごすひとときでしたが。
その当時、資格のないソーシャルワーカーや掃除のおばさんが話好きで患者さんにしたら良い環境!? 普段笑わない患者さんに笑ってもらおうと努力するスタッフお見舞いに来ない患者さんに庭の花もってきたり、、。
我が家の近所のはなしですが、近くのお嫁さん以前はこんな関わりのめんどうなとこ嫌とが、いまはどっぷり漬かりいごこち良さそうです。関わること時に面倒にも思えるけど、欠かせない、欠かしちゃいけないんじゃないでしょうか、、。
13、4年前に出会ったあるおばちゃんが、たぶん私にとっての最初の、介護の先生?!でした。
「この仕事は謙虚な姿勢・気持ちが大事」と言っていました。
時にはずけずけと物申す、謙虚なんてとても似合わない人でしたけど、このおばちゃんのことが大好きで、私は謙虚さを心掛けていました。そのつもりでした。
人との関係の中に居る‘自分”は‘人”は、ひとりだから、それが大事なんだとずっと思っていました。その自分はやっぱり、自分ひとりじゃなくて、互いにかかわる多くの人との関係の中にあってはじめて存在する。おばちゃんの言う謙虚さはそこから、だったんですかね??
やっと、同感じゃなくて、共感できた気がします。
元気かな~おばちゃん
和田さん、皆さん、こんばんは。
私は、和田さんや皆さんから大切なことを大変学んでいると思います。
このことを知ることが出来たことが大変嬉しいのです。
体を自分の力で動かせない御利用者の・・・その人の気持ちを確認する。この事の大切さ、これが自立支援なのだと知りました。体が動けないから、その人が自立していないのかと・・・、けしてそうではなく、体を動かすのは職員でも・・その人のしたいようにしていただく事、そして、その人が起きたいときに起きていただく、それは、その人は自分の思うように体を動かすことは出来ませんが、自分の意思により起きるという選択をされていることだと知りました。
このことが自己満足介護の枠を出ることが出来る大きな意味があると思います。
やり甲斐とやり我意も、その延長線にあるような気がします。自己満足介護イコールやり我意。御利用者の気持ちに添った支援イコールやり甲斐につながっていると思います。
わださんへ
考え合わないなぁ、苦手だなぁ、言えないよなぁ。。。
ずっとそう思ってきた人と初めて、がっつり、意見をぶつけあうことができました。
時間と環境が、やっとスタートラインにたどり着かせてくれたんだなぁと感じます。歩みは遅いけど、頑張って進み続けます。嬉しかったのでご報告!
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