一心
ある場所で、とっても尊敬する、ある人に再会した。
その場所とは、僕には似つかわしくない場所であり、その人にはそこが似合う…というよりそこの顔である。
ある場所とは認知症介護研究研修センターであり、ある人とは「じいさん」である。
僕が応接室で控えていると、応接室の前の廊下を通り過ぎていった人が見えたのだが、間違いなく「じいさん」である。
僕は飛び出して行って「じいさん!」と声をかけると僕を見て「おーっ、和田君か」と両手を出してハグハグしてくれた。
聞くと、本来は来る日ではなかったのだが用事ができてたまたま来ていたとか。僕にとってここは近寄りがたいところで、めったなことでは来ないだけに「赤い糸で結ばれてるんやな」と再会を喜んだし、喜んでくれた。
「じいさん」と初めて会ったのもここ。七年前のことだ。とても著名な権威者で、僕みたいなチンピラには、近寄ることさえもできない人である。
それでも、どういうわけか「僕の中ではじいさん」になったのだが、よく考えると尊んで「婆さん」と呼んでいる僕だから、尊びがあればこそ「じいさんだ!」と思ったのかもしれない。
あるとき「じいさん」に、「あちこちで『くたばりかけのじいさん』なんて紹介してるけど許してな」って言ったら、「君なら許す」って言ってくれた懐の広い深い人である。
何度かステージで一緒にトークをさせてもらったが、毎回のように「じいさんのことを死なせてしまう」ので「今日は殺さないでくれよ」と舞台袖で頼まれるほど(ハハハ)。
その「くたばりかけのじいさん」から元気と勇気をもらった。
ひとつは、言葉をかけてもらった。
「君の事はよく聞くけど、最近は丸くなったみたいだね。だめだよ。今までどおり毒気をもった君でいいんだよ。君にしか言えない、思えないことがあるんだから」って言ってくれた。何となくこじんまりしてきていた自分を感じているだけに、痛烈な言葉をいただいた気がして痛快だった。
ひとつは、言葉をいただいた。
その言葉は「じいさん」の著書に書いてもらった。
僕の宝物がまたひとつ増えた。著書に書く前に「君と僕に共通する言葉を探し当てたんだ」と言って書いてくれた言葉。それは「一心」である。
一心とは、「1 多くの人々が心を一つにすること。同心 2 心を一つの事に集中すること。またその心 専念」とある。
また「仏教における一心の一は、数学上の1・2・3の概念ではなく、絶対なる全を表す。すなわち、万有の事象の基底にある絶対的真実を一心と考えてよい。仏教の最初の文献には、このような意味の一心はなかったが、大乗仏教の文献に頻繁にみられるようになった。そこでは、あらゆる現象の根源に存在する心とか、衆生に内在する真実なる心識とかの意味で用いられた。華厳経にかぎ『現象界は虚妄であり、それはただ一心のつくりたるものである』と述べられているが、この一心の実体について後世の学僧は、如来像とか仏性とかといい、さらに阿頼耶識とも考えた。また、一心は禅定と動議にも用いられる。この場合の一心は心を一つにすること、一つの対象に心を向ける意味である。したがって心の動揺を鎮めることをいい、座禅時の精神統一を一心で表したり、念仏時に阿弥陀一仏を念じ、他の仏を念じないことを一心で表したりする。」とある。
「じいさん」からいただいた「一心」、これからよく考えてみることにする。「じいさん」は何を僕に言いたかったのか、伝えてくれたのか…。
「じいさん」は、くたばりかけている僕に元気と勇気をいつもくれる。いや逆で、くたばりかけているときに「じいさん」が現われてくれるのだろう。
一年に何度も会えない人だが、和田行男にとっては心の支えである。その「じいさん」からいただいた「一心」。
「じいさんと共通する一心」…今はまだぼやっとしているが、いつかわかるときがくるような気がする。
お言葉、ありがとうございます。
コメント
じいさん、とはあの長谷川先生でしょうか。ブログを読んでそう思いました。私たち介護職は和田さんから勇気ややる気をいつもいただいています。そんな和田さんも「くたばりかける」ことがあるのでしょうか。仕事をしていると自分は本当にこれでいいのかな、とか自信をなくすことは度々です。
それでもお婆さんたちの暮らしが少しでも良くなるように、といつも願いつつ仕事しています。今回のブログを読んでより身近に和田さんを感じました。私は熱心な浄土真宗の信者なのでよりそのように感じました。これからもブログ楽しみにしています。
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