自宅・居宅・在宅
アメリカでは松井選手が、日本では巨人軍がわが世の春を満喫した。春先には原監督が宙を舞っていた。
僕が子どもの頃は「巨人・大鵬・玉子焼き」なんて言われるほどの国民的人気を博した巨人軍人気が衰退した近年にあって、今年はまさに巨人一色の巨人イヤーになったのではないだろうか。
一方、わが世界では「在宅」という文字が躍りに踊っているが、よーく眺めると、よく似た3つの文字が同じように使われ、近年は医療も介護も福祉全般がマンネン「宅イヤー」になっている。
この、血縁関係があるのか単なる友達なのかわからない3つの言葉について、微妙に使い分けられているようにも思うので、和田なりに整理してみたい。
そもそもこの3つの言葉にはどんな意味があるのかを、3つの辞書で調べてみた。
自宅とは、A辞書「自分の生活の本拠となっている家。自分の家」、B辞書「自分の家。私宅」、C辞書「自分の家」とある。
居宅とは、A辞書「住んでいる家。すまい」、B辞書「日常住んでいる家。すまい」、C辞書「自分の家」とある。
在宅とは、A辞書「外出しないで自分の家にいること」、B辞書「自宅にいること」、C辞書「外出しないで自分の家にいること」とある。
また「宅」とは、A辞書では「住居。住まい」「自分の住居。我が家」、B辞書では「住居。住み家」「自分の家。自宅」とある。
さて自分の周りを考察すると、「自宅から通ってる」とか「自宅に帰る」など、自宅という言葉は誰もが頻繁に使っているが、「居宅から通ってる」とか「居宅に帰る」とは誰も言わない。
在宅という言葉は「○○さんはご在宅でしょうか」というような使い方はするが、自分を語るときには「在宅している」とは言わず「家にいる」という言い方をする。
宅を単独で使う人にはあまり会ったことがないが、「宅の主人は大手商社マンでして」といったように、「自分の家の」なんていうように使っているのをテレビ番組で聞いたことがある。
さて、国が定めた介護保険法に目をやると、法文に「自宅」という言葉は出てこない(探し当てられていないのかもしれないが)が、「居宅」は出てくる。たとえば「居宅サービス」とか「居宅において」といったようにである。
よく「在宅サービス」「在宅において」という言葉を聞いたりつい使ったりするが、法文には出てこない(これも探し当てられていないかもしれないが)。でも、在宅サービスや在宅生活という言葉そのものが日本語として変といえば変で、在宅生活なんていうのは、完全に閉じこもり生活を表わしていることになってしまう。
また、グループホームのように「住居(すまい)」という言葉も使う。
住居とは、A辞書では「住んでいること。またその場所や家。すまい。すみか」、B辞書では「住む家。すみか」、C辞書では「住んでいる所」とあるが、これも「自宅」や「居宅」の類と考えることで整理できる。
横浜国立大学建築学の権威である大原一興先生に昔「住まい」とは「住居に生活がくっついていること」と聞いたが、僕はそれを聞いて、自分のグループホームにおける生活支援の実践に大きな自信になった。つまり、住居(じゅうきょ)と住居(すまい)は違うということで、グループホームは「共同の住居(じゅうきょ)」ではなく「共同の生活住居(すまい)」なのだと今でも理解している。
僕が何に疑問を感じているかというと、居宅サービスという呼称の向こう側に施設サービスという呼称があるが、そのサービスの中に特別養護老人ホームが入っている。よく似たタイプの24時間型入居施設に特定施設があるが、こちらは居宅サービスに位置づけられている。
特別養護老人ホームが生活施設の中心を担っていることは誰もが認めるところだが、生活の場なら居宅サービスに位置づけるべきではないだろうか。
特別養護老人ホームの運営基準・基本方針には「施設サービス計画に基づき、可能な限り、居宅における生活への復帰を念頭に置いて…」と書かれているが、基本的に通過型施設である老人保健施設の運営基準・基本方針「施設サービス計画に基づいて…その者の居宅における生活への復帰を目指すものでなければならない」と照らし合わせて考えると、少なくとも生活施設である特別養護老人ホームは国民にとっては住居であり「居宅」になるのだから、居宅サービスに位置づけるほうがわかりやすい。あわせて運営基準の条文にものを申せば、願わくばさらに「自宅への復帰を念頭に置いて」とするべきではないだろうか。
これからの日本にとって大きな課題になるのは、「国民の収容施設」ではなく「国民の住居(すまい)」をどう確保するかである。
特別養護老人ホームも新型が誕生してグループホームとの垣根がなくなってきているように思えるが、やはり施設サービスに位置づけられている分だけ自由度が小さいように思える。いや、グループホームももっと自宅に近い形で外部サービス(訪問看護、訪問リハ、福祉用具、住宅改修など)が利用できるようになると、国民生活を安定的に支援することができるのではないか。
自宅・居宅・在宅、住居(じゅうきょ)と住居(すまい)。
言葉の揚げ足とりではなく、国民の感覚を織り交ぜていえば、限りなく「自宅での居宅」を継続できるシステムを整えるべきで、居宅サービスでも施設サービスでも限りなく「在宅生活にならない」ように支援すべきであり、居宅サービスでも施設サービスでも住居(じゅうきょ)を確保すればよい(※)というものではなく住居(すまい)を保障するシステムが必要だということになる。
※特別養護老人ホームで利用料が安くないと利用できない人たちがいるから多床室を! と関係者から聞いたことがあるが、もの申すなら、どんな所得の人でも最低限文化的な生活を保障するという法の遵守から、住まいとしての基本(最低・個室)をもっと安く利用できる制度を創設せよ!でしょ。
来たるべき制度改正の時には。こういった基本的なことから今一度検討しなおしてみてはどうだろうか。
もっと国民にとってわかりやすいシステムを望む。
コメント
いつもながら「言葉」を大切に使う和田さんの姿勢に感服致します。
「自宅」「在宅」「居宅」
今までその時の気分で気ままに使い分けてきた自分の考えの至らなさにちょっと赤面…
確かに「(個々にとって)生活しやすい環境を整える」と言うことが、自立支援の基本的考え方だと思います。実際に一番難しいのは、経済的な制約がある中で、個々にとって快適な環境を整えるという部分だと思います。
もっともですね。
今まで、その人に必要であると利用していたデイやリハビリが入所と同時に一切きられてしまいます。
今まではその人に必要なサービスとして国が給付を認めてきたはずなのに、特養に生活の場を変えただけで、今まで必要としてきたものが急に必要でなくなるなんてことがおかしいと感じています。
特養に入所したからといって、家に居るとき以上の何か特別なことができるわけでもなく、生活の場であるという認識なので、かえって家に居るときよりも活動量が減ってしまうということもあります。
サービス計画が「居宅」と「施設」で大きく変わってしまうことも、制度にその人を当てはめている表れだと思います。
個人の事情で使えないのならいいのですが「制度上、使えない」の説明をどう納得してもらえるか、利用者の要望に対して「制度上、こうなっている」という説明が多くなってきているように思います。
小規模多機能といいながら、必要なときに他を使えない不便さを多機能と呼んでよいのか、と疑問に思います。
国民が支払っている介護保険料の使い方を、制度が支配するのではなく、国民一人に合わせた必要なサービスに転換できるシステムができると良いのに。
最近はそんなふうに思うことが多いです。
初めて投稿します。現在特養に勤めています。
先日、東京都の研修にて和田さんの講演を聞ける機会がありました。涙が止まらず、自分でも何の涙かを終了後考えました。ユニットに配属され、理想を描いて日々頑張ってきましたが、現実と理解の少ない上司達との戦いに少し疲れています。
入居者さんの為、お年寄りの為と唱っていても、お金のかかるユニット。経費のかかるユニット。人件費のかかかるユニット。入居者さんに合わせたシフトを作る為、結局は超過勤務を行い、人員不足をなんとか補っています。
理事長はボランティア精神がないと駄目だと話した事もあります。現場職員の愚痴なんでしょうが、ユニットって何なんでしょうか? 本題と外れてしまいました。すみません。
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