婆さん適応環境づくり
認知症という状態にある人にとって「環境を変えないことが一番大事」という人がいるが、本当にそうなんだろうか。また、「家族と一緒にいるのが一番良いこと」という人もいるが、僕はおおいに疑問である。
自分を取り巻く環境は時間とともに変化していく。それは仮にある地点にじっとしていたとしても、特殊なことをすれば別だろうが、不変なんていうことはあり得ない。しかも人間は環境をつくり変えるほどに進化し「環境に適応する非常に高い能力」を備えたのではないだろうか。
環境を変えないことが良いというのは、認知症になると環境への適応能力が下がるため、適応できずに混乱したりする可能性が高いから。ということだと思う(そう言っている人たちと話をしたことがないので、思うとしか言えないのだが)。
確かに「不適応状態」により混乱した婆さんをたくさん見てきたし、脳が壊れることによって引き起こる認知症という状態を考えると、環境が要因となって混乱等に結びつくことは普通にあるはずだ。
でもだ。
認知症はすべての能力を失うわけではない。また見聞してきた限り、新たに開発されなくなる状態でもなさそうである(理論がないため自己検証不能)。
つまり「変えないこと」ということは、新たな環境を婆さんの脳に提案しないということであり、新たな環境に触れる機会を奪うということでもある。
これは果たして人間にとって、その婆さんにとって、どうなんだろうか。
僕の知る限りでは、新たな環境の中で実に生き生きとした姿を取り戻した婆さんはたくさんいる。きっと皆さんのまわりにも、そういう婆さんがたくさんいることだろう。
『大逆転の痴呆ケア』(中央法規出版)に出てくる婆さんも、そういった中のひとりである。もちろん、環境を変えた当初は不適応がみられる。でも、そんなことは認知症でない僕らでもそうで、おしゃべりなAさんもさすがに初めての場所で普段どおりとはいかないのは当たり前なのだ。それが人間の一般的な状態である。
また「適応」は婆さんの力だけで獲得できるものでもない。婆さんを取り巻く環境に、婆さんが適応できやすいようにする力が働いているかどうかにもよる。僕らはその力をつけていくのだ。
あわせて、何をしても「不適応」を解決できない状態・状況もある。だから薬物等の力も必要なのだ。
当初の不適応や、そうした力が働いていないための不適応、解決できない不適応を捉えて、環境を変えないことが一番というのは、可能性を否定するということでもある。
逆に言えば、不適応な環境にいても、その環境を変えないほうがよいということになる。
勘違いしないでほしいのは、「環境」というのは「居場所」ということだけでない。
婆さんのことを支援している僕らも環境要因であり、家族だって例外ではない。だから家族と一緒が一番ということも普遍的ではなく、家族や自宅が本人にとって「適応環境」となるよう専門職は力を尽くすのだ。
施設も例外ではなく、さまざまな「生活の違和感減少策」もそうしたことの一環である。
婆さんにとって環境を変えないことが一番大事なのではなく、環境が「適応状態」にあることが一番大事だということであり、不適応因子は、どこであれ・だれであれ・なにであれ、取り除く(変えることも含めて)ことが大事なのだ。
だから、家族に認知症のことを理解してもらえるように働きかけたり、職員研修を積んだり、業務改善を図ったり、場を変えたり、さまざまな方策を講じていくのである。
言葉を換えれば「婆さん適応環境づくり」に日夜励んでいるということであり、環境を変えるということなのだ。
コメント
環境が変わる(社会的地位、責任感)=今後の不安が増す=混乱する→それを解決しようとする方→それを回避する能力を発揮する方。
どちらが良いということではないのですが、このような構図は認知症の方に関わらず、認知症の方々をケアする専門職の方が、普通に生活を送って行く上でよくあることではないでしょうか?
もし、認知症の方々が、自分自身の置かれている状況を最善の形で回避しようとしている能力が、いわゆるBPSDと専門家の中でいわれているものならば、それが認知症だろうと認知症でなかろうと、一生懸命生きていく為の術(姿)だと今回、再確認いたしました。
話がズレテますがすみません!
本当にお久しぶりです。最近同居している主人の母の様子がおかしいので、勤め先の居宅の所長に面接をお願いしたところ、要介護2ぐらいにはなっているという結果が出ました。さっそく認定の申請を頼んでいます。
認定前にデイサービスを利用できるということなので、1回目は午後からの体験通所を2回目は1日預かってもらいました。
1日中人の悪口を言う、1日中イライラしている、嫁の私には負けたくないので突き落とすような態度をとる。よくもまあ同居して17年我慢してきたなあと思っていました。
でもそんな嫁の私が、義父や主人よりもどんだけ義母が変わったのか分かるんです。聴覚が弱いのもあり、人とかかわることが少ないということもありますが、悪口が全く口から出なくなったのです。表情も、若干ぼうっとした感じもありますが、天使のような表情になったのです。
そこで、それこそ環境を変えるためにデイサービスに通うようにしました。お陰様で楽しくしていて、次回の利用を待っている状況です。
2回目の利用の日の夕方、夕食の準備をしている私のそばに来て「皆が良くしてくれて」の連発でした。「お母さんがいいからよ」と返事すると手を横に振りながら「いやいや」と否定するのです。なんとまあこの変わりようです。認知症もこんな症状になることもあるんですんね。
居宅の所長が1本栓が抜けて本来生まれ持った素直な義母の姿が現れたんじゃないかと言ってました。私も栓を抜いて素直な自分になりお世話になった義母に親孝行したいと思っています。長々ごめんなさい。
長い人生の中で、多分、幾度となく環境を変えざるをえない経験をして来られ、その中で今の私たちのように、選択出来る場面がどれだけあっただろうと考えると、「適応」したことと「我慢」して生きてきたこととの大きな違いに気付きます。
「ここでの生活が落ち着いてきた」など、一見良いことのように思うことが、その人にとってどうなのかを見る目を持たないと、本当の意味でのその人の支援はできないと思います。
個人をちゃんと見て、環境や関係性、時には生活習慣さえも、何を変えないで何を変えたら良いのかを常に考えていくことが大事と感じています。
認知症があるとかないではなくて、すべてを含めて個人なので、根拠があって変えることには本気でかかわろうとします。
難しいのは、自分はその人ではないことで、だから空回りも多いです。
でも、その姿勢をもってその人にかかわる以外に方法はないし、試行錯誤も関係性であり、許されることだと私は思います。何が最善なんてことは、ひとくくりにはならないですね。
仲間作り…と反省
和田さん、皆さん、御元気ですか?
私は、特別養護老人ホームに異動になり、毎日、人として生きるためのお手伝いをしています。沢山の先輩方に支えられて仕事をしています。仕事も遅く、先輩方に御迷惑のかけっぱなしですが、反省していく事しかないんだと思い支援しています。
初めは、自分がどうしてここに…と思ってしまいましたが、ここにいらっしゃる御爺さんや御婆さんも好きでここにいらっしゃるわけではありません。その人たちが、人間らしい生活に少しでも近づけるように・・支援させていただく毎日です。
その中で色々と矛盾はあります。でも、討論するよりも仲間作りだと思い、仲間作りに励み、反省の日々です。
愛する人・・仲間に支えられて毎日過ごしています。失敗…沢山ありますが、頑張ります。
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