「絆の島」~その続き~
前回のブログで奥尻島のことを「絆の島」と書きました。今回はその続きです。
奥尻は、誰もが知り合いで、名字でなく名前で呼び合う関係です。
「浩、〇○はやってくれた?」
「智子は元気してる?」
同じ名字だと混乱するので、ほとんどが名前呼び。でも北海道や内地(つまり本州ですね)から嫁いできた女性は、自分のことを「徹の嫁だよぉ」と紹介し、それでも伝わらないと地名(例:青苗、谷地)をつけ加えると、「この人は隣の安太郎といとこの青苗に住んでいるマサルの嫁ごだなぁ」と納得して、やっと心を開いてくれることになります。
前回、自然発生的に生まれた地元デイサービスのことをちょっとだけ紹介しました。今日はその話題です。
場所は、役場などのメインストリート近くの谷地(やち)地区です。ここは、写真でわかるように家に煙突があります。この煙突から煙がたなびいていると、そこかしこから近所の高齢の女性の皆さんが、三々五々集まってきます。両手にタッパーを持ってね。中味はお昼のおすそわけ用の手作り惣菜です。
手前のだるまストーブに薪を入れて、みなさんが持ち寄ったお餅を焼いて食べている様子が浮かんできます。
名前は「いも煮会」。近くの畑でじゃがいもを栽培し、それを煮て食べ始めたことから命名したそうです。
食事が終わると、みんなで歌を歌ったり、編み物をしたり・・・もらい物で多いのがタオルですが、そのタオルを縫って「ハンドタオル」に作り直したものも見せてもらいました。
この自然発生デイサービス(サロンですね、どちらかと言うと)を主催しているのが、写真の高田アキさん(86歳)です。
「私は樺太の国後生まれです。戦争が終わって、国後にはもう住めないので、強制的に引き揚げになりました。その頃はもう結婚していて、行先は奥尻島でした。国はいいことばかりを言ってました。やってくるとビックリです。寒いし仕事もなにもない。漁業しかない。そんな奥尻でしたが、本当にみなさんがやさしくてね。いろいろおすそわけもしてもらい命をつないできました。いま、こういう場をやっているのも恩返しです」
実は奥尻島の人と話していて意外だったのは、訛りが強くないことでした。みんな開拓の人たちですから、出身はバラバラ。そのせいで、標準語に近い人もいました。
このあたりの開拓は本当に大変だったようです。
奥尻島の島民だって行かないような土地です。笹と小木だらけの小山の開墾から当時の人は始めたといいます。戦後の引き揚げ者の方々といっても、30代そこそこで幼い子どもを数人連れての開拓。その苦労は言葉を絶するほどだったと想像されました。
奥尻でケアマネジャーをするためには、樺太など北方4島の知識や戦後史を学んでおかないと、話が進まないようです。
ムロさんの写メ日記
奥尻島の2日目午後の小じんまりした研修会。畳部屋がとくにいいですね
昼間はケアマネジャー、夜はご主人が経営されている島で唯一のコンビニの店員さんで、基礎資格は看護師の越森早苗さんです。全国には、僧侶などを兼務されている方はいますが、コンビニ店員との兼務は初めてでした。
数年前までは地域包括支援センターで保健師のように在宅高齢者の健康指導などにも活躍されていたと聞きました。いやいや働き者です!(^^)!
今週のメールマガジン「元気いっぱい」第275号(無料)は「私と私たち」(水曜日配信)です。メルマガは随時登録受付中です。ケアタウンの公式HPではバックナンバーまで見ることができます。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。