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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

嫌われ統合失調症松子の一生

 僕を始め統合失調症者は、もともとの対人関係が人懐っこい、子どものような性格がある。それで統合失調症者は癒し系だとも言われるのだが……。まるで施設で育った子のように、誰にでも警戒心なく人懐っこく、またプイッと離れていったりする。精神科病院や施設でもよく見かける光景だ。愛情薄く、もしくは間違った愛情で、育ってしまったのかもしれない。

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 その人懐っこい性格が人間関係でつまずいて孤独状態になると、本当にキツい。もともと人に冷たくできる性格なら孤独はそれほどキツくないかもしれないが、統合失調症の病前性格は人とつながりたくて仕方ない、寂しがり屋なのだ。でも友人と親しく自由に付き合えるほどの器用さもない。不器用さが孤独をさらに募らせ、人を拒絶するような気持ちになることもあった。
 発病前の東京暮らしでは、ぼくは反発心から家からの仕送りを一切断っていた。自殺したいとか、人というものが憎くて殺意が芽生えたりすることもあった。発病前はそんな孤独がたまらなくキツくて仕方ないけれど、寒さの中で身を縮めて耐えるように、必死に耐える。環境が変わらない限り耐えるしかない。耐え続けるとプライドばかりが高くなって、よけいに人とつながれない。そこに、友だちができるとか、自分の居場所ができるとかいうことがあって、ほっと安心する時期がくる。安心したら、限界を超えてストレスをためて、プライドで保っていた自我の力に隙ができる。ダムがアリの一穴で崩れるように自我の崩壊、瓦解が起こる。発病だ。寒さの中で耐えていたのが、暖かいところに入ったとたんに、風邪を引くようなものだ。

 人は自他と言うものを、人との境界線で意識している。人との境界線があるから、人と距離が取れる。距離が近づくと境界線を解いて、人と親しく交われるし、逆に親しくなくなると、境界線を意識して、友達からアカの他人の距離になるということが自在にできる。それを意識的にあるいは意識しないでできるのが普通の自我だ。

 では崩壊した自我、瓦解した自我と言うのは、どう言う状態かというと、他人との境界線が消えているので、自我は無限に広がっていき、他人の醸し出す雰囲気を過敏に感じてしまう。他人からわずかに反感の雰囲気がでたりすると、雰囲気を直接察知し過ぎて、脳内で悪口が響く。もちろん当人の気持ちがハイであるときには、褒め言葉が響くときもある。これが電波と言われるものだ。急性期には、これが絶え間なく聞こえたりする。これが統合失調症者なりに、人と親しくつながっている状態だ。妄想のスケールも無限に広がっている。とても神秘的な世界を体験することもあり、当事者の人格が高ければ、神の世界を見ることだってある。僕の体験した妄想は『こころの病を生きる』(中央法規出版)に詳しく書いた。

 子どものような性格だと言ったが、これはもともとの要素が、発達障害的であるということだ。発達障害の人も自他の境界線をうまく使い分けることができない人が多い。人との付き合い下手が多い。育った環境によっては歳を取っても、諦めを知らない子どものままだったりもする。それで孤独になったりしてストレスをためて統合失調症発病の準備をする。発達障害の2次障害として起こっている場合が多いだろうと思う。もちろん発達障害の2次障害のあらわれ方は、依存症的になったり、逆に神経症的になったりといろいろだろう。

 純粋な統合失調症というものがあるのかどうか分からないけれど、多くの場合には、依存症的部分や神経症的な部分も混然としているものだと思う。何が生活上で一番困っているのか?ということが医者に対する当人の主訴になり、病名がつくのだと思う。処方薬は困っている状態の一時しのぎだ。もちろん一時しのぎの連続が、ゆくゆくは安定にもつながる。

 ぼくの主治医の言うことには、「人のこだわる欲望には3つあって、名誉欲、金銭欲、性欲だ。このいずれの欲望からもすべて自由になれる人間は、極めて少ない」んだそうだ。思うに「欲望が現れる源は、空虚であり、孤独である。つまり愛がないことだ」と。だから欲望のある誰もが、環境次第で病気になる可能性があるとも言えるだろう。愛がないと破壊衝動が目を覚ます。ぶちこわせ!黒くぬれ!(by Stones)昔の酒鬼薔薇聖斗の犯行予告は「野菜を壊します!」だった。これが楽しいことだということを、僕は知っている。
 そして程度の差こそあれ、これらの欲望のあるだれもが中身のないニセモノの人間だろうと思う。中身が詰まっている人間も多いだろうけれど、実は、嫉妬、怒り、恨み、劣等感、嫌悪感などが、どろどろと詰まっているのだろうという気もする。本当に愛に満たされた理想的な環境で育ち、長じて人にも分け隔てなく愛を分け与える本物の人間というものは、思考実験のみで可能な気がする。当然この思考実験には宗教も含まれる。

 秋葉原事件の犯人は「人と関わりすぎると怨恨で殺す。孤独だと無差別に殺す」と言ったけれど、孤独な彼にもし居場所や友達がいれば、人懐っこい彼は、たぶん統合失調症を発病したかもしれない。事件を引き起こすこともなく、閉鎖病棟にいたかもしれない。また彼は空虚だとも言っている。中身のない人間だと言うことだろう。起源はもちろん母親からの虐待だ。心が満たされた人になるための心が育つ子ども時代に、愛という栄養をもらえなかった。ぼくはそんな犯人をとても他人とは思えない。無差別殺人事件の犯人はほとんどが男性だ。女性には、生活手段として援交とかセックスワークだとかがあり、元々つながりを求める性格があり、人間関係のなかで生きて行く術を身につけるからかもしれない。

 さて統合失調症は治る病気だ。いつまでも自我は崩壊、瓦解したままではいられない。発病したときから、すでに自我の修復作業は始まっていると思う。ただ完全修復にはとても長い期間がかかると言うのは、自然治癒力の性質上しかたない。ストレスによってすぐに、再発に逆戻りしてしまう可能性が常にある。いつになったら寛解するのかは、人によって全く一様ではない。ぼくのように50歳頃になって晩年寛解する場合もあるし、60歳を過ぎても、幻聴のある人もいる。

 治癒には必須の過程がある。空虚や孤独を癒す過程だ。育て直しとも言う。ぼくが若いときに居場所としてのムゲンを立ち上げたのは、直感的にぼくの育て直しには仲間が必要だと感じていたのだろう。波津子と出会って、癒されたことは、以前本『こころの病を生きる』(中央法規出版)にも書いた。
 べてるの当事者研究が知られているけれど、自分を研究して言語化することによって、それが仲間とのコミュニケーション手段になることや、人に自分自身の病気の研究発表をすることによって、治癒に必須の自分に対する、客観的な見方を養うことにもつながるのだろうと思っている。

 客観的になるには、醒めた目で現実を見る必要がある。統合失調症者は、これがとても苦手だ。すぐに夢中になってしまう。極限まで夢中になったら、強力な現実からの反動があり、普通の人は醒めてしまうだろう。しかし極限まで夢中になることは、とても苦痛でストレスフルだ。このストレスが、途上にある自我の境界線の再構築を崩して、幻聴が再発したりする。恋愛沙汰が再発につながるというのも、よくあることだ。たぶん普通の人にとっても、恋愛は境界線を失うという、一種の病的状態なのかもしれない。

 「幻聴のある状態というのは、酔っぱらいに似ているかもしれない」と思っている。実際アル中も独特の幻覚があるらしい。さて水をかけて酔いをさまさなければ(笑)。 といって水をかけると、そのストレスでかえって幻聴はなくならないだろう(笑)。主観的な世界からはなかなか醒められないけれども、治癒に向かうには現実に醒めて、客観的であることを目指すべきかもしれない。というか寛解すれば自然に醒めてしまうものだろう。卵かニワトリかと言う話みたいだが……。

 中井久夫先生は「幻聴がなくなることは寂しいことだ」というようなことを言っていたと思う。幻聴さんの存在は、うっとおしくても、対応に忙しいから、普通本人は寂しくはない。寛解するとは、現実に醒めるとは、寂しく孤独になることだ。そのためにも仲間と居場所は必須だ。幻聴がある状態は、傍から見れば、寂しい人だったのだけれど、その現実に自らも気づくことが寛解だ。醒めて自分と周りの現実を客観的に眺められるようになれば、寛解だ。いくら自分の主観の中で苦しいことがあっても、客観的な目があれば、周りの人を眺め「自分もその人の中の1人にすぎない」と、冷静に人と共通する部分を観察し、感じることもできる。「一緒じゃん!」という訳だ。

 さて寛解して「普通」になると、まるで思春期のような悩みがやってきた。「生きているうちに、自己実現をどうするか?」ということだ。人生ずいぶん回り道をしてしまった。普通の人が「思春期に悩んで、行動を起こしていく」という自己実現の悩みが、晩年寛解した後にどっと押し寄せた。損な人生だったが、時間は取り戻せないから、過去は諦めるしかない。発達障害は職人向きだが、自分は腕のいい職人になることもできなかった。自分の歩んできた過去は自分自身が愛してやらなければどうしようもない。自分もこれでまた一つ大人になったと思うしかない。多分「病気が目に見えない自分の肥やしになっているのだろう」「病気のカミングアウトが生きがいにもなっていたのだろう」とそこに希望的観測を行うしかない。

 若いときから一歩ずつ普通に自己実現できていれば、あるいは逆に晩年寛解していなければ、たぶん直面しなかっただろう疑問が、ぼくにはいまフツフツと湧いてくる。「いったいぼくは何をしに、この世にやってきたのだろう?」ということだ。「遊ぶためかな?」「残りの余生は遊んで暮らしたいものだ」とつくづく思う。「人生は究極自己満足しかない」という気もするから、今まで病気でずいぶん辛かったのだから、それくらいは許されるだろうと思う。もちろん過去今まで、ぼくと関わりがあった人たちには、もちろん感謝をしているとともに、冗談抜きに「殺したりしなくてよかった」と思っている。ある意味、綱渡りのような人生だったかもしれないと、しみじみと思う。

 さてこれでこのブログも最終回なのですが、いまマットグロッソのお店とインターネット中継がつながっているので、呼び出します。「クリスちゃ~ん!ふうさ~ん!」

 クリス「こんにちは、クリスです。どうもこのブログを今まで読んで下さって、ありがとうございます。わたしもこの仕事で自分のセンスが磨けてきたなあ、って思います。生きる上で自分のセンス、それに女のカン、あはは。これを信じて、やって行こうと思っています。大きな決断のときもたぶんくるし、ばびさんのような病気や事故にあうこともあると思いますけれど、できるだけ無難に生きて行きたいで~す!」
 ふう「やあ、ばびさんも元気でな。これからも友達だぞ。いつでも連絡をくれていいぞ!」
 ばび「このブログもいろいろありましたが、お二人とも熱演してくれて、どうもありがとう。ムゲンはこれからも「就労施設なのに居場所!」をキャッチフレーズにやっていきたいです」

 クリス、ふう、ばび「どうも長い間ご愛読ありがとうございました!」


コメント


佐野さん、大変お疲れ様でした。とても素晴らしいブログで、今までありがとうございます。

中央法規さんお願いです。
抜粋加筆して頂き単行本化よろしくお願いします(^0^)/


投稿者: ジョン | 2012年03月30日 20:07

ブログ最終回だそうで、残念です。
今まで、ほとんど読んでいなかったのですが、とても興味深い内容です。
確かに私も病前の性格はさびしがり屋でしたし、子供っぽい面も今でもあります。
ところで、私が生まれてきた意味ですが、弱い立場の人の心を理解出来るようになるためだったのではないかと思います。
昔の私は、自分より不幸な人の事を考えることは全くありませんでした。
あと、私の親族はほとんど、心も体も強くみえる人たちです。
それに対して、私はもともと病弱で、意志も弱くて、継続した努力というものが出来ませんでした。
何かをやろうとしても、長続きせず、挫折を繰り返して、自分の無力さを呪ってばかりいたと思います。
でも、私は、大学受験に失敗した後、生まれて初めて、現実と真正面に向き合い、自分の夢をかなえるために出来るだけやってみようと思い、努力して、望みの職業につくことが出来て、大勢の人に愛され、助けられて、少しは、成長することが出来たと思います。
でも、幸せは長くは続かなかったです。
入社して、3年後、会社の方針が変わり、私がいた部門は、なくなって、仲の良かった仲間も、みんなばらばらになってしまったからです。
過労死の基準となる残業100時間以上の月が1年半以上続き、失ったものを取り戻すため、必死に努力しましたが、結果は統合失調症になってしまっただけでした。
でも、病気になってはじめて分かったことも多いと感じています。
人間、自分の努力だけで、何もかも自分の思い通りになると考えるのは、思い上がりだと考えるようになりました。
また、努力をすることはいいことだと思いますが、死にそうになるまでやる必要はないと思います。
あと、とても悲しい現実、例えば、自分の全てだと思っている大好きな人が自分を嫌いだという事が分かったとき、根本的に問題を解決するには、悲しみをあるがままに受け入れ、受け止め、感じきり、涙枯れるまで泣くしかないと思います。
でも、それに耐え切れないときは、受け入れられる時がくるまで、逃げてもいいんだとも思うようになりました。
どうも、長文失礼しました。


投稿者: いが | 2012年03月31日 08:25

ブログ、おもしろかったです。
佐野さんの視点から物事を見ると、こんなことあんなことになるのかと、興味深かったです。いろいろお勉強になりました。クリスちゃんって、滝クリから名前とったのですか?(笑)ふうさんのお店の経営が順調にいくことをねがってます。


投稿者: 金太郎の妻 | 2012年04月01日 07:32

ジョンさん:時節ものの話題もありますが、抜粋して単行本化か電子書籍化になるとうれしいです。

いがさん:努力は無駄に終わることも多いものでしょう。だから無理のない範囲で、楽しくやれたらいいと思います。
大好きな人が自分を嫌っていることが分かったときには、こころに深い傷を負います。自分を嫌いだなんて、殺してやりたいとか、いや自殺したいとか、でも結局泣くしかないとか。一時的には逃げられても、理不尽な現実を結局は受け入れざるを得ないです。辛さの副産物として、心の幅が広がることもあるでしょう。

金妻さん:たしかに自分主観を深く掘り下げた文章が多かったように思います。クリスちゃんはフランス人とのハーフで、滝クリと同じなのです。


投稿者: 佐野 | 2012年04月01日 18:50

ブログお疲れ様でした。
佐野さんの言葉には説得力がありました。
また違ったフィールドで、言葉を発信していって下さい。
お疲れ様でした。


投稿者: Live | 2012年04月01日 19:50

Liveさん:これからも、発信は続けたいと思います。でもすでに痴ほうが始まっていて、人の名前が全く覚えられません。(泣


投稿者: 佐野 | 2012年04月03日 18:32

佐野様

初めて投稿させて頂きます。
統合失調症の弟を持つ兄の立場で大変興味深く拝読しておりました。
病の発症から現在に至るご自身の経歴を客観的に発信されており、
特に、発病の要因として生育環境の中で親御さんによる虐待があり、その経験を心理学者が説明するかのように記されている点です。
統合失調症に関する書物では発病の原因は家庭環境には関係ないとされておりますが、私の生家は機能不全家族であり、親は毒になる親であり、
家庭環境も弟の発病の大きな要因であると考えております。
佐野様の発信はこの病と長年に渡り向き合われ、ご自身を取り戻された方の当事者目線の人生のそのもので、この病の治療に必要な精神的環境を臨床的に構築するための貴重な発信なのではないだろうかと感じております。

また、何らかのかたちで発信されることを期待しております。
これまで貴重な経験を拝読させてもらい有難うございました。


投稿者: 脱・永遠の仔 | 2012年05月31日 22:26

本当に脱永遠の仔ですね。虐待の連鎖は自分の代で止める必要があります。虐待は万病の元です。不良のもとでもありますし。生まれつきの発達障害があったりすると、2次障害としててきめん、影響が出てきます。また機会を捉えて、発信していきたいと思います。


投稿者: 佐野 | 2012年06月04日 18:58

 なんとも寂しい限りです。新居浜の川村実さんの『僕は統合失調症』の後半をやっと今日読みましたが37歳発症で15年の闘病生活(2006年時)は僕が来島共同作業所に通い始めたのも37歳で精神保健福祉の世界で15年目で共通するものを感じました。
 ただ発病は大学2浪目の二十歳で紆余曲折が長くこじれにこじれてました。これからも宜しくお願い致します。m(__)m


投稿者: 左門 豊作 | 2012年07月09日 23:49

川村実さんはお元気でいらっしゃるのでしょうか?


投稿者: 佐野 | 2012年07月13日 19:06

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
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