障害者の値段
殺人事件の遺族が死刑の執行を求めるが、怒りを加害者に向けることは当然だろうと思う。もちろん国が代わりに死刑を執行することは、また別の議論だ。ぼくは国に殺人の権限を与えてはいけないというのが持論だが、今回は過失による死亡事故、それも障害者が被害者になった場合についてだ。
2005年、札幌でのことだ。2歳半で自閉症と診断を受けた、当時17歳、養護学校の2年生の男の子が、ヘルパーに付き添われて、路線バスから降りたときだ。ヘルパーが運賃を支払っている間に道路に飛び出してしまった男の子は、後ろから来た乗用車にはねられて死亡した。乗用車の運転手の入っていた保険会社は遺族の両親に、逸失利益が「ゼロ円」を提示した。
損害賠償は普通、現実に生じた損害と、逸失利益(生きていれば得られたであろう将来収入の合計から、生活費を差し引いたもの)と慰謝料の3つを合計して算出するらしい。逸失利益は働ける年齢を18歳から67歳までとして、死亡しなければ得られたはずの収入から算定する。健常者の場合おおむね4000万円らしい。労働能力がない場合はゼロ円だ。慰謝料は家の大黒柱でない場合、2000万円から2400万円くらいらしい。この事故の場合は慰謝料のみの提示で1500万円だそうだ。
女性は労働能力が低いと見なされるので、慰謝料を上げるなどで、調整するらしい。軽度の障害者の場合には、最も高くて、最低賃金を適用した判例があるらしい。
さて両親が、逸失利益4000万を含んだ、7300万円の損害賠償を求めて訴えた裁判は、2009年に地裁で和解した。約1563万を逸失利益とみなし、ヘルパーも含めた加害者側が約4013万を払う内容だ。重度障害者(自閉症)で、最低賃金を元にした逸失利益が認められた、はじめてのケースだそうだ。素直に喜びたい。重度障害者も働けることが認められたわけだ。
さて、ここで逸失利益一般についてのぼくの意見だが、「逸失利益」という考え方がそもそも「働けるか、働けないか」で、人を差別扱いをする元になっていると思う。この和解は現状での前進だが、理想は「働けようと働けまいと、一定の基準に従って、同一金額の補償」にならないものだろうか?たとえば最低限、長期にわたる遺族のカウンセリング料金をはじめ、こころを癒すための被害者補償金を、加害者に代わって国が公的に支払えないものだろうか?もちろん犯罪事件、不慮の事故のいかんにかかわらずだ。法制化にあたって被害者が、障害者の場合と健常者の場合の金銭的価値が同じでは、世間様の理解が得るのは難しいだろうという気はしている。
しかしそもそも逸失利益と言う考え方自体が、フィクションだろう。死んでしまったものが働けるわけがない。極端な話、葬式代だけがいるだろう現実は、遺族も受け入れざるを得ない。しかし遺族の、子どもたちを失って傷ついたことによる怒りは、到底納得しないだろう。加害者に矛先が向くのは当然だ。「何故、よりによって自分の子どもが、被害に遭わないといけなかったんだ!」そこで「もし生きてさえいれば•••」という遺族のフィクションに沿う形で、逸失利益と言う考えが生まれたのかもしれない。あるいは健常者が事故で植物状態になった場合に、逸失利益が導入されたのかもしれない。
だから先ほどの僕の主張のように、国は責任を持って、被害者の心の傷が癒え、事件や事故を忘れられるお手伝いをするべきだろう。いつまでも加害者への怒りに、全エネルギーをとらわれていると、被害者自身は一歩も前に進めないだろうと思う。被害者も残酷で理不尽な現実を、いつかは受け入れざるを得ない。もちろんフラッシュバックなどともつきあえるようになるには、長い年月が必要だろう。そして被害者のこころの中で、いつまでも生き続けるようになるのだろう。
これをぼくは人ごととしては考えられない。ムゲンは重度障害の人も来ている就労支援事業所だ。例えば、事業所への送迎の途中で死亡事故を起こすかもしれないし、階段などで思わぬ事故もあるかもしれない。被害者となる障害者側ばかりではなく、加害者側になるかもしれないと、考えている。不幸な事態だが、可能性として否定できない。人は生きていれば、どこで被害者になるか、あるいは加害者になるかは分からない。偶然の神様のみが知っている。生きることは傷つけ合うことだから、これからも人の怒りに付き合って行かざるを得ない。もちろん自分が怒りの張本人になる場合も含めて。
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