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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

人はどうして生きているのだろう?Part3

 生まれつきの障害や病気、理不尽な原因による心の傷が原因で「何で生きているんだ?死んでしまいたい!」と思った時期は、だれにでも心当たりがあることではないだろうか。愛する人に頼った末、愛する人に取り残されると、「何で生きているんだ?」と分からなくなり、元気がなくなり後を追うように亡くなることがあるらしい。

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 「動物は他の動物に食われて栄養になるために産まれてきた」という面があるかもしれない。しかし人は食物連鎖の頂点に居て、誰に食われる心配もないはずなのに、こんどは人同士で戦争したり、殺し合ったりしている。敵を見つけないと生きていけないのだろうか?殺意というものが、ぼくの中にも湧き上がるときだって、当然ある。ジェンダー的に言って、敵を求める攻撃性は男性性なのかもしれない。平たく言うと「男らしい」?
 以前のブログで「男なんてカマキリのオスのようなものだ。性交が終わったら御用済みで、メスの栄養になるために食べられてしまうしかない」と書いたことがある。いまぼくは「この世に何の御用があって生きているんだろう?」と不思議に思っている。女性はいい、子どもという価値を生み出す可能性をもって生まれてきている。一方男性には性交が終わったら、いったい何の価値があるのだろう?「愛があるじゃないか」というかもしれない。しかし愛はトラウマにもなるし、醒めもする一時的な熱病のようなものだろうと思う。そしてオヤジは、つねに女性から疎まれるものだ。
 愛と言えば、去年の漢字は「絆」だった。でも絆も、一時的なもの、時期的なものではないだろうか。人は結局最終的に、孤独にひとりぼっちに、落ち着かざるを得ないのだろうと思う。
 そうこうで、男性として生きるためには、積極的に何か価値あるものを探さなくてはならなくなる。たぶんそれで国や会社や組織に忠誠を誓ったりする。正義感に燃えて、人権を守ったり、社会をよくしようと立ち上がったりする。世の人に人の道を説いたり、相談に乗ったりもする。スポーツや得意分野で日本一世界一を目指したりする。あるいは知性を動員して、複雑なものをシンプルに説明する理論を構築したりする。自分で価値を見いだせるものに向かって鍛えていく。単純に「鍛えること」こそ、男らしさのキーワードなのかもしれない。女性が足を開くだけで、ほとんどの男性は喜んで興奮してしまうのだから、男性というのはとても熱しやすく単純にできている。男性が自分から与えた価値はとても単純だ。「おっぱいのほうがいい!」という議論はまたの機会にしよう。
 女性はもともと、あらゆる男性的価値から自由なはずなのだが、男女平等の男社会で揉まれ、男性的価値観をしっかりともっている女性も増えたのだろうと思う。
 しかしあらゆる価値から醒めてしまうと、すべてあらゆる価値あることは、自分のあるいは周りを巻き込んだ「幻想」に過ぎないと気がついてしまったら、鍛える努力はバカバカしいことに気がついてしまったら、自分の無価値に向き合わないといけないという、とんでもない事態になる。
 価値あるものに夢中になれる間は、たぶん幸せだ。醒めきってしまうと、自信を持って前に向いて主張できないし行動もできない。何もしないでおこうと思う。受け身になったり、周りに流されたり、あるいはやけくそになって、酒やギャンブルに溺れたりもする。犯罪者になることだってある。後ずさる生き方になってしまう。でももちろんこれは堕落だとは思わないが、壊れるとも言う。
 「生かされている」という人も多々いるけれど、では「生かしてくれている神や仏はホントにいるん?」という疑念もわく。
 これから夢中で何かに向かってジャンプできる青春時代に、価値や努力に醒めきってしまうことがあれば、とても不幸な事態だ。将来何者にもなれないという、ことに気づいてしまう。「これから長い一生、どないしよう?」というわけだ。どうして関西弁になるのだろう?
 ぼくは今になって醒めきって、全力で立ち往生してしまっている。たぶん笑うしかない事態だ。関西弁でツッコめば、「何でやねん!」

(Part4に続く)

コメント


 葛飾北斎は90歳で死ぬまで、絵を書いていたと聞いています。滝沢馬琴は70代で失明しましたが、口述筆記で書きかけの「南総里見八犬伝」を書きあげて、82歳まで生きました。もっとも寿命が短かった江戸時代では、まれな例ですが。
 もっと身近に見てみると、日本の大学の先生は、50代過ぎてやっと一人前の学者なのではないでしょうか。それに私の好きなアーティストの、小田和正は、60代になっても高い声で愛の歌を歌い続けています。才能がある人は違う、と言われそうですが、うちの父も70代でパート教師をやっている、元気な高齢者のはしくれです。
 私は、佐野さんから見ればおめでたいことに「お母さん、私を産んでくれてありがとう」と、あらためて口にする必要はありませんが、その気持ちは持っています。家族に大事にされ、ぬくぬくと毎日生きています。生きることに、疑問を持っていません。ただ「生きる」です。「why?」は必要ないです。父もまた、どうして生きているのか考えたことがあるか訊いても「ない」といいます。
 人は結局は一人なのでしょうが、父は「人は存在しているだけで価値があるんだよ」といいます。愛といえば、性愛は年をとると衰えるかもしれませんが、家族愛や友愛はずっと続くと思います。やっぱり、おめでたいのでしょうか?頭が良くないのが良い方向へ向いて、単純なのかもしれないです。
 ちなみに、カマキリのメスが交尾のあとオスを食べてしまうのは、カマキリは視覚が弱く、動いているものは得物だと思って、なんでも食べてしまうのです。交尾した後、さっと去ったオスは食べられないそうです。長くなってすみません。


投稿者: 金太郎の妻 | 2012年01月22日 01:57

 カマキリの正しい説明をありがとうございます。
 すばらしい迫力です。けっきょく家族がいても、ムゲンで仲間に囲まれていても、どこかでぼくは孤独なんだと思います。病気が悪い間はカミングアウトするという前向きなエネルギーがあったと思いますが、寛解して健常者同様になって、なにかを見失っているのかもしれません。昇進して管理職になった人が、うつ病になると言う話も聞きます。この不全感はなんなのだ!と困惑しています。何かにつけ、どうでもいいって思ってしまいます。新たな病気でしょうか。。。


投稿者: 佐野 | 2012年01月23日 21:23

明日、Part4が始まってしまう時に書くのも野暮?ですが、新たな病気というより、スランプになっているだけだと思います。


投稿者: 金太郎の妻 | 2012年01月25日 21:46

 う〜ん。スランプか〜。孤独を愛するのも、いいかもって、最近おもうようになりました。自分が無力と思うほどに、自分の発言の影響力が大きいことに、驚いています。現実に触れない冗談言っているときが、楽しいです。余生は遊んでいたいです。


投稿者: 佐野 | 2012年01月26日 17:51

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
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