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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

人はどうして生きているのだろう?Part1

 新年あけましておめでとうございます。と、何がおめでたいのか誰も分からないまま、伝統的に「おめでとう」と言い習わしている訳ですが……。
 今年でぼくは58歳を迎えますが、毎日が経つのがとても早いと実感しています。月曜日だと思っていたら、すぐ金曜日がやってきて、いつの間にか土日の休みを迎える。こうしてどんどんと歳をとる。
 昔は長いトンネルの時代もあり、いつ終わるともしれない、苦しみの毎日だったこともある。その頃は「時間が経たずに、とても1日が長かったな」と思い出す。しかし苦しみの中では、そう簡単には死ぬことは考えなかったように思う。かえって歳をとってからの最近のほうが、悩むこともなく、出来事をすぐに過去へ過去へと流してしまうのに、「自殺でもしようか」と、頭に浮かぶことが多いように思う。「自殺でも」である。うつっぽいのかな?

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 ここ1~2年孤独の縁をさまようことが続き、それまで結構醒めた目で見ていたこの世の現実から、いっそう醒めてしまった。「生きていることそのものから、醒めてしまったのだろうか?」と感じている。「周りから苦にもされないで、醒めた孤独を抱えながら目立たず淡々と生きている人も、実に多いのだろう」ことも納得した。
 「孤独に耐えられるようになったら、統合失調症も治ったも同然」だと以前のブログに書いたと思うが、ぼくはやはり基本が統合失調症体質なので、子どものような人なつっこい、人との無距離感はもっている。しかし人間関係を醒めた目で見てみれば、孤独に耐えることも避けられないことだと分かり、諦めもつくものだ。人との無距離感が寂しさを呼び、孤独に耐えられなくなって、自我の境界線を越えて、人とつながろうとする自意識が、統合失調症の幻聴の源だったと思っている。寂しさのあまり、身近な人なら誰でもいいから関心をもってほしくて「監視カメラで見張っている」と信じ込んでしまうのだと思う。野良猫のように愛されないと、おびえて周りの人を疑う気持ちばかりが、限りなく肥大してしまう。

 「年寄りはいったい何を感じているのだろう?」と疑問だったこともあるが、みんな「諦めて孤独と無力感に耐えているのだろうなぁ」と分かった気がする。だから、年寄りに話しかけると、あんなに嬉しそうに話すのだろうと思う。
 50歳も過ぎた頃から、自分の死を意識するようになり、「老後は余生だ」「余分に生きているだけだ」とは思っていた。歳をとって、素直になって、同時に疑い深くもなった。ま、矛盾しているのだが、人ってふつう矛盾だらけなのだろう。それが高じて最近は「自分はこの世に何をしにやってきたのだろう?」と、生きている意味までを疑ってかかるようになった。「人の一生は胡蝶の夢」という言葉があるけれど、ユメマボロシを見ているうちに、人は一生を終えてしまうような気もしている。

(Part2に続く)

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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