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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

世界死刑廃止デーpart3

 さて、死刑の問題を考えるのに、「被害者感情」はとても大切だ。残された身内の愛が深いほど、「加害者を殺してやりたい!」とおそらく100%の身内が思うだろう。1人で抱え込んでいたら、理不尽な出口のない思考にとらわれて、怒りの出口は、犯人の処刑しかないとぼくだって思うだろう。突然連想がぱあーっと広がって、激しいPTSDの発作にだって襲われるだろう。生き地獄を味わうかもしれない。
 愛する人の命を救えなかった自分の情けなさに、自殺だって考えるかもしれない。そこまでいかなくても1人で考え込んで、確実にうつになってしまうのではないだろうか。そういうときに聞いてくれる第三者、カウンセラーだとか、そういう寄り添う人が被害者の身内には必要だが、愛する人を失った深い孤独に共感してくれる人などめったに身近にはいないだろう。
 しかし「孤独だ!」と打ち明ける人がいることは、心の傷の大きな慰めになるかもしれない。獄中者はもれなく貧乏で、莫大な補償金もはらえない。もしもPTSDが放射能の半減期のように癒えるとすれば、国は早急にそういう犯罪被害者に対する十分な、法的な保護の体制をつくるべきだ。

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 世間が被害者の身内に同情して「早く死刑にしろ」みたいな流れになることもよくある。しかし被害者感情というのは死刑が執行されれば、一件落着するような単純なものではないと思う。被害者の身内が「死刑の執行では少しも心は晴れない」と言っているのを複数聞いたことがある。死刑の執行で被害者の身内の「被害者の命を助けてやれなかった」という無力感と自責の念は消えないだろうし、自身のPTSDも少しも癒されないだろう。死刑の執行は1つのエポックメイキングかもしれないが、死刑で愛する人が戻ってくるわけでもない。世間から被害者の身内のことは忘れられたのちにこそ、本当の苦しさが続くのだと思う。
 なぜ、よりによって自分がこんな理不尽な喪失感を味わわないといけないのか! 神も仏もあるものか! 「愛する人を失う」というあまりに理不尽な仕打ち! 単純に「死刑は正義だ」と信じている人は、本当に被害者の身内の気持ちを考えたことがあるだろうか? 正義な正論はPTSDの人を苦しめる場合だってある。
 PTSDの苦しみは経験者にしか分からない、さまざまなに複雑な段階があるのだと思う。最後には心の中でときどき会話とかしながら、亡くなった被害者が身内の心の中で永遠に生き続けるのかもしれない。一種ロマンチックな解離状態で安定を見るかもしれない。


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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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