人は死ぬ前に何を思うのだろうpart2
戦場では死んだ兵士が身につけていた金属の認識票が集められる。これで家族への戦死の連絡が行くのだろうが、一人ひとりは圧倒的恐怖の中で死ぬ瞬間に何を考えるのだろう。やはり生きていたときに心を通わせた、恋人や家族のことだろうか。ではひとり孤独に生きてきた高齢者たちは、何を考えて息を引き取るのだろう。子や孫や、心通わせたことのある思い出だろうか。
日本には古くから「死を美化する」伝統がある。特攻隊は「華と散った」し、捕虜は「生き恥をさらす」ことは禁止されていたし、死刑囚は「死をもって償う」。ヨーロッパでは死刑は廃止されても、同じような先進国である日本では死刑は行われている。いまでもこういう美学が、人々の中に生き続けているからではないのだろうか。
もちろん、ぼくは国が権力をもって「死をもって償わせる」制度は、はやくなくなってほしいとは思っている。
中国の死刑のレポートを読んだ。中国では年に数千人の銃殺による処刑が行われている。処刑の2週間前になると血液検査を行う。処刑後の臓器移植に備えるためだ。だから血液検査のお呼びがかかると、処刑が近いことを悟り、死刑囚は一気に自暴自棄になり、自殺する者もいるらしい。だから手足をしばって、板に固定される。手足を固定された死刑囚には世話人がついて、ご飯を食べさせたり、排泄の世話をする。しかし中には変態刑務官もいて、特殊な管を囚人の尻に突っ込んで興奮するという虐待も行われ、破裂したトマトのようになった尻から出る血が止まらないこともあるそうだ。もちろん中国の人権意識のレベルもあるのだろうが、死体から臓器を取り出すという合理主義は、もしかしたら共産党の無神論にその起源があるのかもしれない。
ぼくは日本の「死の美学」をもって戦争などで散るのも、中国の「合理主義」をもって処刑されるのも、当たり前だがまっぴらごめんだ。もちろん明日のことはどうなるか分からないし、死後の遺体のあつかいまで自分で確かめるすべもないけれど、親しかった人たちによって、ぼくを思い出し焼いて散骨してもらいたいという希望はある。人類の生まれ故郷の、海にまいてほしいが、面倒なら自宅の庭にまいてくれてもいいと思っている。
「終活」が静かなブームだそうだが、生きているうちに葬儀をしたり、好きな言葉を刻んだお墓を建てたり、遺影の撮影をしたり、自分史を書いたり、仲の良かった人たちと一緒にお墓に入る「墓友」との交流とか、精一杯楽しんだらいいと思う。長寿日本人の余裕だよな。
コメント
>ぼくは国が権力をもって「死をもって償わせる」制度は、はやくなくなってほしいとは思っている。
私もそう思います。それに日本は諸外国に比べ、再犯防止の為の努力が少ないようにも思います。厳罰化しても、逆に死にたい人が自分では死ねないから、人を殺して死刑にしてもらおうというトンでもない事件もおきてきています。巻き添えをくう人たちには耐えられないことだと思います。
とくに覚せい剤だとかギャンブルがらみだとか性犯罪も、病気の治療と言うか、教育刑?っていうのか、再犯防止に向けた取り組みがいいです。
あと貧しくて食べられなくて、刑務所に入りたいとか、福祉の貧困でしょうね。福祉にかからない障害者とかの受け皿になっているとか。山本譲司さんが本に書きましたね。
死刑はなくしてもいいですが、酷い犯罪者が無期懲役を受けても、仮釈で25年ほどで出所してくるのには疑問です。それでまた犯罪繰り返す人もいますしね。
被害者心理からも検討の余地はありますね。
個人的には私が家族を犯罪で失ったら出所したと同時に加害者を殺める自信があります。どういう理屈を加害者が並べようとも。
終身刑とか強制労働とかあってもいいとも思います。
普通の無期はそんなに仮釈は早くないはずです。一般的に30〜40年でしょう。獄って羊人間製造マシンのような気がします。精神病院に長期入院していても、同じですが。
終身刑は死刑の代替えとして、検討されて入るようですが、ボク自身、終身刑の人間の一生を想像したことがないので、ちょっと分かりません。強制労働は日本がせっかく先進国なのに、北朝鮮並みみたいになってしまう気がします。
ボクの友人に死刑は廃止して、敵討ちを復活させろ、と言う人がいますが、長期にわたって、恨みを持続させることは、いかに愛した人が殺されても、ぼくなら難しいです。人の心は変わるもんだと思います。人生とはかくも理不尽なものだと思います。ぼくを薄情だと思いますか?
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