孤独を生ききるpart6
寂聴さんは良寛様のことを小説に書いている。良寛様は70歳のときに巡り会った、40歳下の貞心尼という尼僧と恋をして、恋の歌を多く残している。良寛様の死の床に駆けつけた貞心尼は良寛様につきそって、下の世話までなにからなにまで看病をした。その様子を寂聴さんは想像して書いている。
死の床で寒がる良寛様の布団に入り、背後からぴったりと添い寝して、体を絡めて暖めてあげ、良寛様が寝息を立てるまで暖め続けたと。その後何日か生き続けて良寛様は亡くなった。こういう看護をされることにぼくもとても憧れるが、孤独な老人の共通の夢だろうと思う。
死に至るまで終わらない凄まじい老いの孤独とも、今までぼくが精神の病気と共存して生きてきたように、老いとともにやはり共存していかなくてはいけないのだろう。老いれば行動半径や人間付き合いもぐっと狭まるし、暇つぶしの場所もなければ、1日の大半を1人で過ごすこともとても多くなる。まさに「咳をしてもひとり」「タンを吐いてもひとり」だろう。どうこころの準備をすればいいのかも分からないが、最悪の場合、いつ孤独死してもかまわない覚悟だけはしておこうと思う。
この本の最後は「孤独は自由と同義である」と結ばれている。自由気ままに生きていれば、人は孤独になるし、逆に孤独な生き方をしていれば、誰にも束縛されない自由が得られる。
アリとキリギリスの話では、夏の間自由を満喫したキリギリスは冬の寒さに凍えて、アリに助けられるが、自由に思いきり楽しんだ後には、罰としての孤独が待っている。冒険し楽しく自由に生きると、すべて自己責任だし、この世にはすがるべき神も仏もない。
平和な生活が続いているとだれでもつい忘れがちだと思うが、一寸先は闇だ。今回のように突然震災に襲われて、いつ避難民になるかもしれない。死の床でみんな自分の人生を振り返って後悔することはないのだろうか?
そして、自由に生きる者は、キリギリスに助けられたように、世間の多数派がアリのように不自由に耐えて、こつこつと働いてくれること無しには、食べ物も自由に食べられないし、生活も成り立たない。人はみんな「餅は餅屋」「馬は馬方」である。
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