孤独を生ききるpart2
昨年末に瀬戸内寂聴の「孤独を生ききる」という本を暇ひまに読んでいった。「だれもが、寂しくない人などはいない」というお話だ。
中島みゆきで、「恋が終わって、立ち去る方は美しいけれども、とり残される方は恋焦がれて泣き狂う」という歌があったと思う。ケロロ軍曹ではこうだ。
ケロロ軍曹「ジョリリ先輩!? 恋って何でありますか??」
ジョリリ「恋っていうのは、つまりこういうことだ。池の鯉とは~別物だ!」
ケロロ軍曹「???」
さて恋の終わりは、だれもがとても孤独だ。たとえ初恋の人と結ばれようとも、必ずいつか死別はやってくる。先ほどの本の中ではとくに、展望のない不倫女性の孤独の話は胸がつまった。小説風な展開だが、もちろん寂聴さんの経験をベースにした話だ。
そして最後の章に控えるのが「老いの孤独」だ。孤独の中でも誰しもが死ぬまで逃れられない、もっとも厳しいであろう孤独だ。老いの孤独を超えるような激しい孤独といえば、以前ブログでも書いたアウシュビッツでの経験だとか、ソビエト抑留体験とか、何かしら事件の被害者になったとき、とかの孤独かもしれない。
何度も投獄された革命家の荒畑寒村氏が90歳のときに40歳の女性に恋した話が紹介されている。彼女には他に恋人がいて、荒畑氏の片思いに終わったのだが、「この恋のせめてもの救いは肉欲が伴わない点です。しかし、だから嫉妬は5倍です」と言って、寂聴さんの前で泣いた、という話が記されている。粋で上品な美しい老紳士だったそうだ。それにしても90歳にして、すごいポテンシャルである。
また「老いの孤独」で、有島武郎の弟で白樺派の小説家の里見弴氏が取り上げられている。90歳でいつも最高のとてもおしゃれをしていると聞けば、イタい感じも想像してしまうけれど、若いときから最高のおしゃれをしてきていて、きっとすごくおしゃれを楽しんでいたのだろう。寂聴さんも「とても粋だった」と褒めている。荒畑氏も里見氏も共に無神論者だったので、死んでから愛した人たちに会えるなどとはもちろん思ってはいない。あの世や天国があると素直に信じられれば、どんなにか楽だろうと思う。
荒畑氏も里見氏も愛した人にどんどん先立たれても、決して寂しそうな顔など見せずに、周りに細かい心遣いをされていたそうだ。老いの過ごし方として、とても感じるところがある話だ。老いているからこそ、周りの印象を良くする。ダンディのプライドの見せ所かもしれない。
コメント
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自分に当てはめますと、老いの孤独は実感を伴わないのですが、逆に、親の老いを見て、いつまでもいるわけではないのだなと、その辺に孤独を感じます。
寂聴さんは尼さんですが、ずっと子供のころから仏教の修行を重ねたというのではなくて、日常の心の機微をベースに持つところがいいですね。荒畑寒村氏の言葉、ぐっときました。佐野さんの感じる孤独、どのように表現を続けてゆくか、次回も楽しみにしています。
40にして惑わず、60にして耳従う、なんて古典的理想的老人観は、全く的外れだと思います。90にしても惑うのが、人間だと思います。老いたキリスト者で、他の欲は、だんだん消えて行くけれど、性欲だけには悩まされると言っていたと思います。
寂聴さんはとても恋多き人だったと聞いています。その苦しみの連続が、悟りの境地になったのかもしれません。
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