人生の脇役(part1)
今日もマットグロッソに来ている。クリスちゃんがひとりでお客用の丸椅子に座って、ぼけ~っと店番をしている。ぼくは突然、水谷豊の歌がひらめいて、ほかに客もいないし大声で歌い出した。
「ねえ君〜ぼくはこう思うのさ〜♪ 人生なんて〜紙芝居だと〜♪ 何とか何とか何とか何とかで〜♪ 時っていう名の自転車こいで〜♪ やさしさ〜紙芝居〜♪ そして誰もが主人公〜♪」
クリスちゃん「ビー玉、ベーゴマ! 水谷豊! やさしさ紙芝居! うまいよ。私も好きな歌ですう。いつかカラオケ行きましょうか」
「うれしいな。ぜひ行こう。でも遊びにいくなんて言えるようになったのは、仕事にも慣れて余裕ができてきたのかな?」
クリスちゃん「そうですね。仕事を始めたころから、休日は寝てばっかりでしたから」
「この『誰もが主人公〜♪』って歌詞、昔はぼくも『そうかもしれない』って思っていたのだけれど、どうも『自分は主人公ではなく脇役だったほうがいいかも』って最近よく思うのです」
クリスちゃん「私も引きこもっていたときには、『いつか自分も人生の主人公にならなくては!』って思っていたのですけれど、『脇役でいいんだ』って言われると、何だか楽になる気がします」
「ぼくも病気人生。障害者運動などにも熱中したことあるけれど、いつも自分は世間の隅っこにいる。いつか普通人たちの仲間入りをして堂々と中心を歩いて行く日が来るのかもしれないって思っていました。でも晩年寛解って、ようするに病気が治るってことだけれど、晩年寛解していざ普通の人になってみると、どうも今まで隅っこを歩いてきたせいか『主人公になる生き方』ってぼくには合わないみたい」
クリスちゃん「は〜そうなんですか。わかる気がします」
「世間を見渡すと『主人公』になっている人が一杯で、主張したり衝突したり、押しのけたり押しのけられたり、トラブルの元です。力を抜いて脇役人生だと思えることができたなら、生きることは易しくトラブルも減ると思うのですよ」
クリスちゃん「な〜るほど」
ぼくは目の前の水槽の、レッドテールキャットという大きなナマズを見ていた。からだは黒っぽいのだが、それぞれのひれの先端がオレンジ色に縁取られ、とても愛嬌のある顔をしている。水面に手を入れてみると、ゆさゆさと体を振ってゆっくりと近づいてきて、長くて白いひげを蓄えた口でぼくの指をぱっくりとくわえた。
「よく慣れていますね」
クリスちゃん「手渡しでもえさを食べますよ。かわいいです」
「でも育つと1mくらいにはなるのでしょう?1匹だけででかい水槽がいりますね」
クリスちゃん「でも、なまずの好きな人は飼いますよね」
「なまずはファンが多くて、同好会もできていますね。たしか昭和天皇もなまずファンでしたね。なまずの話になるとまわりの空気を読まずに延々としゃべっていたらしいです」
クリスちゃん「水槽の掃除屋さんと言われている小さなコリドラスから入って、大型なまずに夢中になる人もいます」
ぼくは夜行性ななまずの昼間の面倒くさそうな動きを、「癒されるなあ」と思って飽かず眺めていた。
(part2に続く)
コメント
私は「脇役」を専門にしている、いわゆる「名脇役、バイプレイヤー」が好きです。いかに主役を立てるか、芝居の奥行きを出すようにするか、脇役にはいろいろ考えて演じなければならない大切な役目があります。主役が「大根」だと、それを補わなくちゃならない。大変な役どころです。また、「敵役」という存在も見逃せないと思っています。
芝居にはいろいろな役がありますが、私は「自分は裏方が向いている」と思っています。芝居の表舞台には立たず、舞台装置を組んだりして。
みんながみんな、「主役になりたい」と思っていては芝居は成り立たないですから。
この世に「必要のない人」なんていないと思っています。そういう意味では「みんな主役」です。
暮れですね。1年の早いこと。
必要のない人ということではなく、脇役人生とは「目立たない生き方」だと思います。何が人よりすぐれているかなんて、本当にどうでもいいことです。世間では、ムダにコンプレックスに悩んでいる人がとても多いと感じます。
最近お芝居をよく見るのですが、何しろ生ですからとてもリアルです。演技というのもとても面白いものだと感じています。一種、遊んでいるようです。人生の終わりまで、遊んでいたいものです。
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