結婚帝国―女の岐れ道(part3)
引き続いて、『結婚帝国―女の岐れ道』(上野千鶴子、信田さよ子著、講談社)を読んで思ったことをまとめる。
本書の中にある「去勢しないかぎり、暴力は続くのか」という章は、もちろん男のDVとセクハラについての対談だが、DV男の治療的強制プログラムについての話題の中で、信田さんが次のような例をあげている。
DVじゃないですが、性的犯罪を繰り返してきた男性のカウンセリングの経験があります。「自分は異常性欲者ではないか」という問題を抱えてカウンセリングにやってきました。電車に乗ると痴漢をしたくなってしまう。わたしたちはそれをアディクション(嗜癖)という文脈でとらえて、アディクションについての教育プログラムを受講してもらいました。そしたら彼は、アダルトチルドレンという言葉にいちばん反応しました。父親はギャンブル依存症で借財を作り、離婚する。それで彼はその父親と二人で逃げて東京で住む、という生活をしていたそうです。
セクサホリック•アノニマス(SA-JAPAN)という自助グループがあります。下着を盗んだり、レイプをしたり異性との性的関係に問題を抱える人たちのグループです。彼に、そのグループに行くようにすすめて、カウンセリングも一年間続け、結果的に問題となる行為は止まりました。で、一年たったときに、彼は「これでいいんだろうか」と思い始めたんです。最初のパラダイム転換(新しい枠組み)は「自分の行為は性欲によるものではなく、ひょっとしたら生育歴が関係しているのかもしれない」というものでした。つまり悲惨な家庭環境の被害者としての自分というとらえ方ですね。
さらに彼はその後、「自分がやったことは犯罪ではないか」「痴漢をした高校生に謝罪するべきではないか」「自分のやったことに責任を取るべきではないだろうか」というように、考えが変わっていきました。
この中で「自分の行為は性欲によるものでなく」というくだりは、「父による性的虐待も、性欲ではなく愛という名の支配欲」ではないかと、著者二人の間で議論になっている。つまり「娘は自分のものだから何をしてもいい」という。それで「男性は支配以外の愛情を知らない」ということで、共感している。
まあ、家族を守る気概のある多くの男性は支配者であるのかもしれないけれど、ぼくはそういう意味での男らしさはない、弱い男性だと思う。弱いといえば、普通男性のほうが女性より繊細でもろいので、強そうに見える男性も、実は一皮むけば「張り子の虎」だという実例も見てきた…。
自分の若い頃のことを思い出した。次々に女性からコクられて、3人と同時に付き合っていたことがある。それまで全然モテなかったのに、成り上がった反動で、その頃は「自分はモテるんだから、女性に何をしてもいいんだ」と思い上がって、父の病院の看護婦さんたちのお尻を触り回っていたことがある。看護婦さんは「お父さんに言いますよ」と言っていたが、無視して触り続けていた。
どういうきっかけで止まったか覚えていないのだけれど、たしかに性欲からというより、クセになっていたと思う。貧困な性的な自信を取り戻したかったのかもしれない。しばらくたってから、「これはセクハラという犯罪ではないか」と知るようになった。そして触った看護婦さんに謝罪をした。とんでもない、世間知らずのおぼっちゃんだった。
そして小さいときから虐待されて育ったアダルトチルドレンであったということも、考えてみればいびつな愛を受け、愛される実感を知らずに育ったぼくが、女性からコクられて、やっと等身大で愛されて有頂天になり「勘違いオヤジ」の域にまでいってしまったのかもしれない。
一つのことを成し遂げて有名にもなり、それまでモテなかったコンプレックスオヤジが有頂天になって、女性問題(フェミニストから見れば男性問題だろう)を起こして社会から葬られていくという話も、枚挙にいとまがない。もちろんぼくだってそんなオヤジの一人ではあるのだが…。
(part4に続く)
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