シベリア抑留とは何だったのか(part3)
前回、前々回に続いて、詩人・石原吉郎の話。今回で最後になる。
石原は、収容所内でほかの囚人二人とまき割りをしていたとき、その一人が真っ青な顔で、突然もう一人のロシア人の肩に斧を撃ちおろしたのを見た。石原はすぐ隣にいた。またあるとき、作業中に逃亡の疑いをかけられ、警備兵に背後から銃で五、六発撃たれ、弾がわずかにそれたこともあった。
石原は、どちらのときも黙って立っているだけだった。自分自身にさえ関心を失いかけていた。1時間の強制労働の後に与えられる10分間の休憩時間に、石原は近くを流れる河のほとりで一人じっと「猿のようにすわりこんでいた」。「単独な存在であること」を放棄し、意思も、感情も、言葉も失って、「猿のように」うずくまる自分自身の姿が残像となり、この後も振り払うことができなくなる。凍りつく孤独。
後に、女性と子どもの働くコルホーズ(集団農場)の手伝いをするようになり、8時間労働と3度の食事つきになって、囚人たちの体力は回復していった。半年が経った頃、建築現場の壁の陰で、年若い抑留者が声を殺して泣きじゃくるのを石原は目にする。「かれはやっと泣けるようになったのである。以前は一滴の涙も流さなかった」。
復員後の石原は自分の人生について、重荷をおろすことができないまま、ラーゲリの体験を反芻することにこだわった。「ああ、私は新しい人間になりたい!」と過去の記憶から逃れたかったのだけれど、故郷日本に拒絶されシベリアへと立ち戻るしかなかった。その重みは石原の生活を荒らし、精神を破綻させ、アルコール依存症となって入院もした。
石原のほうがもっとつらかったに違いないけれど、これは、母親から受けた虐待を、統合失調症という病気で生きざるを得なかったぼくの場合とも似ている。ぼくは大学浪人時代本当に孤独だったし、自恃(やせ我慢?)しているプライドもあったので、泣くこともなかったし狂わなかった。しかし、大学に入学し友人も得て、自分の寂しさや怒りをロックバンドでどんどん外に出していって自恃が崩れていき、幻聴が始まり発病した。石原も長く抑留中の体験を一切語らなかったが、体験を文章化していく(最初にシベリア体験を書いた『望郷と海』を発表したのは、復員から20年近くたっていた)にしたがって、恐らく自恃が崩れるように、アルコールにのめり込んでいったのではないのだろうか? しかしどちらが人間的だと言えるだろう?
「それでも石原は一番つらいことは言えなかったんだと思う」と親しかったクリスチャン仲間で近所に住んでいた木村さんは語る。シベリアで起きたことを淡々と語っていた石原。だが自分のこと、自分がどうして生き残ったのかは、死ぬまで語らなかった。同胞にどういう酷い加害をして生き延び、苦しんでいたかを語らなかった。石原は次のように語っている。
「「すなわち最も善き人びとは帰っては来なかった」。『夜と霧』の冒頭へフランクルが挿んだこの言葉を、かつて疼くような思いで読んだ。あるいはこういうこともできるであろう。「最も善き私自身も帰ってはこなかった」と。今なお私が、異常なまでにシベリアに執着する理由は、ただひとつそのことによる。」
富田氏は、「石原がラーゲリを「告発しない」のは、「生き残った自分は加害者」だったという意識が、戦争犯罪を告発できなかったのではないのか」と語っている。
「ここにおれがいる。ここにおれがいることを、日に一度、必ず思い出してくれ。おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。(中略)もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。もし捨て去るという、明確な意思表示があれば、面倒を起こしてこれを受けとめる用意がある。」
この石原のけんか腰の怒りは、故国から見捨てられ、帰ってきても日本に拒否され捨てられた怒りだろう。
死においてただ(統計上の)数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。誰にも弔われることもなくラーゲリで死んで、穴の中へと捨てられた多くの人がいる。石原もこうなる運命に絶望していた。「石原吉郎という人間がここで死んだことを、だれかに確認してほしかった」。
死において、その人の名を呼ばれることは、人の最後の尊厳かもしれない。
一人一人の名前を呼ばれなくてはならないという石原の発言は、平和運動への違和感につながる。広島では原爆によって14万人が亡くなった。「大量殺戮」だから、反対なのか? 「一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに」という広島の平和運動の発想に強い反発を表明する。「一人や二人ならいいのか?」「一人や二人のその一人こそ広島の原点である」と。
大量殺戮の陰で「一人の死を今なお置き去りにし続けていることは戦後へ生き延びた私たち(もちろん石原自身の)の最大の罪である。大量殺戮のなかの一人の死者を掘り起こすことこそ、私たちがいましなければならないことである」。
「おくりびと」という、本木雅弘が納棺師の役をやった映画を見て、死後に遺体をこんなに丁重に扱われるということがわかっていれば、「安心して死ねる」とぼくは思った。
石原は自宅の風呂場で自殺同然に亡くなった。62歳だった。身近な人から「とにかく酒を断って、生きなくちゃならない」と説得されると、石原は「生きてどうすればいいの」と言った。
なぜ石原吉郎にこんなにもこころ引かれるのかというと、たぶん多くの人もそうだと思うけれど、どうしようもない無力感にとらわれるときがしばしばあると思う。この裸の子どものような孤独な状態が、ラーゲリでの体験そのものだと確信させてしまうためだろうと思う。
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