幸子さんと私(part2)
『幸子さんと私』(中山千夏著、創出版)を読み進めて、最後のほうでとても気になる記述に出合った。千夏さんが幸子さんのことを回想する記述だ。
ちょっと恐ろしいけれども、こんな想像が浮かんだ。殺そうとした、とは思わない。しかし、赤ん坊がいなくなればいい、と願ったことはあったのではないか。子どもが病気になった時、このまま死ねばいい、と無意識に願ったことがあったのではないか。子どもが手元から離れた時、このままいなくなればいい、と願ったことがあったのではないか。だが、いつも子は生還した。なかなかにしぶとかった。頑健だった。しぶといな、頑健だな、という無意識の感想が、「叩いても死なない」子という思い込みを生んだのではないだろうか。
この箇所を読んだ時に、衝撃が走った。実はぼくも、自分の半生記を書き終わる頃、「母はぼくを殺そうと思ったのではないか?」と思ったのだ。小さい時から高校時代までに渡る虐待をもっとさかのぼっていくと、どうしても「母は幼児期にはぼくを殺そうと思ったのではないだろうか」というところに収斂するのだ。
しかし世間体を何より重んじる母は、そんな世間的な良妻賢母に反する不道徳に耐えられるはずもない。急いで抑圧して、無意識の領域に追放したに違いない。まったく自分の思い通りにならず、どんどん育っていくぼくを虐待してまで、自分の支配権を行使した。無意識の領域に追いやられた殺意は、母の神経症の壁を補強していったのではないだろうか。
祖母のことを母は多く語っていないけれど、「ぼくにしたと同じように育てられた」と言っていた。見事に虐待は連鎖している。おまけに母は人付き合いを極端に避けてきたから、他の親の育て方の情報など知らなかっただろう。
ぼくのほうはというと、思春期にはごく普通の性欲を感じていたけれど、長じてマゾ的状況でないと、性的に興奮しなくなった。女王様に厳しく責められ叱咤されるマゾ男は、母親に叱られる幼児そのままだ。ぼくは今でも重度のマザコンだ。
ぼくは小さい頃、「シャツに口紅が付いていた」と、母が父をどつき回っていたのを、「許してあげてよ」と母に懇願したのを覚えている。ぼくは父が優しくて好きだったけれど、母は「父がいかに頼りない男か」ということを、こんこんとぼくに吹き込んだ。母は「父は好みのタイプではない」と言っていた。
母は、お勉強ができるいい子として、ぼくをしつけていった。ぼくが思春期になると、性的成長をあざ笑い嫌悪した母は、ぼくを「子どもとして」愛したのではなく、「恋人として」愛していたと、ぼくは感じていた。詳しく覚えていないのだが、性行為はなかったと思うけれど、母の白い太腿は忘れられない。ぼくが性的に成熟して、他の女性に行ってしまうことを阻止したかったのかもしれない。高校生の時に、女性からもらった手紙を目の前で母に破り捨てられたことがあった。「大事な時なんだから、こんなことしている場合じゃないでしょ」と言って。ぼくは泣いて抗議したような覚えがある。
マザコンは一見過保護に愛され過ぎてなるように見えるけれど、実は母親から、等身大に子どもらしく「愛されることが足りなかった」から、大人になってからも引きずってしまうのだ。小学校の頃、しょっちゅう自家中毒(食べたものを吐いてしまうこと)を起こしていたのを思い出す。最近、自家中毒は心身症である場合が多いという記述を読んで、深く納得した。原因は家族内のストレスだったのだ。
しかしぼくの父は一生にわたって、際限のないわがままな母を支えて、とても偉い人だと思う。小泉純一郎氏から賞状をもらって嬉しそうにしていたが、苦労の末に最後に残るのは「名誉」なのかもしれない。
(part3に続く)
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