阿久根市長の発言
ブログ市長として有名になり、市政改革を行っている阿久根市の市長が、自分のブログで次のような発言をした。
「全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない」。その通りだ。精神科の医者なら、電気ショックの知識と新薬数種類を知っていれば勤まっています。
そして次の部分がマスコミでやり玉に上がっている。
「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果擁護施設に行く子供が増えてしまった。「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ」と、いかにも「障害児は死んでくれたほうが」と言わんばかりだ。
親を選べないというのは、人生最初の理不尽だが、今ではぼくも「生まれることは喜びで、死は忌むべきものだ」と素直に思っている。親に虐待されて育っても、生きているうちに癒されることも多いものだ。市長はあらゆる障害者にケンカを売っているけれど、ぼくは統合失調症という障害をもっていても幸せに暮らしている。市長もそう言うなら、「交通事故に遭っても、高度医療を受けて半身不随になるくらいなら、病院に運ばないで死なせてくれ。老後も高度医療のお世話になるくらいなら、長生きなどしたくない」と言うべきだ。尊厳死の考え方だ。「死は忌むべきものではない」という考え方は、「尊厳死」に親和的だ。さらに航空自衛隊の出身だそうだから、死を美化する先の大戦時の「特攻」にも親和的な感性なのかもしれない。
無視しようと思っていた発言だが、「謝罪しない」らしいので、ぼくもブログで書くことにした。
えてして、保守的な人たちの本音というのはそんなものだが、「野生」がお好きだ。競争原理を勝ち抜いた者だけが生き残れる。あの小泉改革がそうだった。さらにエスカレートすれば、弱者を抹殺するヒトラーもいた。優秀なアーリア民族が繁栄するために、劣等なユダヤ人を抹殺した。優生思想だ。
東京都知事の「役に立たないのは女の年寄りだ」とか、「死刑を自動的に機械的に行えないものか」と言った法務大臣、「男は強姦できるくらい元気がないと」とか言った国会議員もいた。公人の本音トークが大流行りだが、最低限のモラルをもっていないと、人格疑われますよ。
市長のブログには、実は市長の発言に対する障害当事者のコメントも載せられている。これを読んでとても悲しくなってしまった。要約すると、「周囲のサポートなしでは生きられない人生への不安と憤り。動物として自立できなくて情けない。淘汰されてもしかたない」などの言葉が並ぶ。
コメントは市長のブログで確認してもらえればと思うが、読んでいると、福祉の網にもかからないだろう軽度障害者が、どれほどの孤独とともに一人で生きてきたのか。健常者の社会で、歯を食いしばって普通に働いたりしながら、周りからどれほどの差別を受けてきたのか。障害が軽いだけにかえって障害を受容できず自分を卑下して、健常者の欠損ととらえて、自信をもって自分を肯定できない不幸。「前向き」という言葉もあることに少し救われるが、容赦なく自分を追いつめる姿はあまりにも痛々しい。「残りの人生でよきことがありますように」と祈らざるを得ない。
コメント
阿久根市長また問題発言です。毎日の記事より。
http://mainichi.jp/select/today/news/20091222k0000m040104000c.html
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