精神病とモザイク(part2)
今回も、映画『精神』と『精神病とモザイク』(中央法規出版)の感想だ。
精神病者に対する差別は、ごく自然に育つ子どもたちのこころの中にも、得体の知れない怖いイメージとして漠然と広がっていく。回り回って、子どものうちから発病する若者が出てくるなかで、自身に内面化された差別は、発病した若者が自分自身を否定し、「精神病院に行くと人間終わりだ」と思うような悪循環を起こす。
医療につながれば、この映画の中の「こらーる岡山」の人々のような平凡な毎日を過ごせるというのに。また、医療につながっても治ったと勝手に自己判断して、医療から離れてしまう人もいる。あるいは薬を飲まなくなって大爆発を起こし、警察のお世話になる人もいる。
監督の想田氏が一番頭を悩ませたことは、撮影に同意してさんざん撮らせてくれた人が、あとで一転して「やっぱり私のシーンはカットしてください」と言ってきたときだという。
映画の冒頭、(こらーる岡山の主治医である)山本先生に「もう死にたい」と訴える美咲さんもそうだった。撮影が始まると、美咲さんはときには冗談を交えながら、ときには怒り、涙しながら、ご自分の境遇や気持ちを饒舌に語ってくださった。
ところがその翌日「やっぱり昨日の自分はいつもの自分じゃなかった。できたら使わないで」と言ってこられた。ぼくはひとまず、それを了承するしかなかった。2年後に美咲さんに再会したときに、ぼくは思い切って「以前、やっぱり映画に出たくないとおっしゃっていたけれど、いまも同じですか?」と聞いてみた。すると、「そうですねえ。やっぱり、私を撮ってください」といわれた。以前よりも厳しさを増していた境遇のなか、逆に自らを表現したいという欲求を強めておられるように見えた。
ぼくも似たような思いをしたことがある。『こころの病を生きる』(中央法規出版)という本を出版した後、ぼくは本の中で赤裸々なカミングアウトしているのだが、読んだ人から一部分を抜き出されて「面白い!」と評されたときには、「書き過ぎた!」と我ながらショックを受けたことがある。しかしそれで「もう怖いものはない。前に進むだけだ」という思いを強くすることができた。「書き過ぎた!」と自分で思えるくらい書かないと、読者は面白がってくれないということもわかった。
「ドキュメンタリーは報道の延長にあるというテレビの影響で、「客観・中立・公正」なものだというイメージがあるけれど、実は監督の主観的な表現である」と想田監督は断言する。これとまったく同じことを、オウムの日常を内部から撮ったドキュメンタリー『A』『A2』の監督・森達也氏も言っていた。
編集作業とは、監督の主観を入れていって、あるいは気に入らないところを削っていって、監督が何を表現したかったのかというテーマを明確にする作業だからだ。監督の出会いの記録を観客に追体験してもらうものだから、ドキュメンタリー映画『靖国』において、「不偏不党であるべきドキュメンタリーにおいて!」などという批判が巻き起こったのは、笑止と言うべきなのだ。
ぼくも日頃から「真実」という言葉を使う人に違和感をもっている。「この世には真実などない。無数のおびただしい数の事実があるだけだ」と思っている。どこかに「真実」というものはあるのかもしれないが、ぼくには永遠に近づくことすらできないものだと思っている。あるいは、自己表現を極めた末に、あるとすれば「真実」らしきものに近づけるのかもしれない。
いや、やめだ。こんなものを追求し始めたら、また気が狂うだけだ。日々「快」で機嫌よく暮らせれば、それ以上の幸せは人生に存在などしない。
(part3に続く)
コメント
精神病に対する恐怖感は幽霊にたいしてもつ恐怖感みたいだとおもいます。正体をしれば、枯れ尾花、なんだとおもいます。
そういやこどものころ、救急車の音が聞こえるとダレダレちゃんのこと迎えに来たよ、なんてこどもどうしやってましたね。
「精神」という映画は是非みたいのですが、マイナーなんでレンタルでるか心配です。本当に治らない人もいるけど大半の症例は退屈に治っていく(?)んだと思います。だいたい、コワイコワイってすり込みすぎて、本当にコワイ状態までほおっておく仕組みがバカみたいです。
当事者にとっては糖尿病なんかと同じ、一つの持病なんですが,マスコミやいろいろな噂とかで、病気の正しい姿が伝わっていないですね。
地域でお隣に作業所とかがあって、普段から顔見知りになったすれば,いいのですが。
当事者自身もひきこもっていると,煮詰まるので,ぜひ地域に出てきてほしいものですが。
たぶん「精神」は,待っていれば、DVD化されると思います。
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