少年A矯正2500日全記録(part2)
前回に引き続いて、『少年A矯正2500日全記録』(草薙厚子著、文春文庫)を読んで思ったことである。
Aは関東医療少年院に入院して2年が過ぎると、事件直後の「死にたい」という心境から、「無人島で一人で暮らしたい」へと変わる。「彼が人間らしさを取り戻した時に、罪の恐ろしさから発狂するのではないかという危険が言われていたが、スタッフとの柔らかい関係が、たぶん発狂を防いだ」と関係者は言う。
入院して3年が経ったころ、少年院のプールから見えた「かっこいい」女性に、少年たちは一斉に声を上げた。この時Aも一緒になって、声を出して冷やかし始めた。同時期にAは、女性のヌードグラビアもほしがった。女性スタッフを見る目もまぶしそうで、女性の性器や胸など、裸に興味を持ち始めた。関係者たちはAの変貌を心から喜んだ。
親に恵まれなかった育ちをした人の「育て直し」は、ムゲンでの経験からいえば、20代くらいの人はそれほど手間暇をつぎ込まなくても、比較的順調に成熟していって、ムゲンのゆったりとした雰囲気が物足りなくなって自立へ向けて卒業していくこともある。感謝の言葉が聞けると、こちらだって「報われた」ととてもうれしい。
ところが40歳も過ぎた人は、いくらきめ細やかに親切にして育て直しをしようと思っていても、何年やっても、ちょっと調子を崩せばこちらに敵意を向けてきて、感謝の言葉どころではないし、こちらのこころも燃え尽きる。どうも若いうちしか育て直しは有効ではないようだ。
Aには育て直しを含め、生活訓練過程(G3)というのが初めて適用され、それまで最長2年間だったのが5年5か月間、お父さん役、お母さん役を含め大量のスタッフを投入して、矯正が図られた。ひとえに、センセーショナルにマスコミが報道し続け、世間を震撼させたためだ。
さて、Aは年子の弟がいる。そのため10か月で離乳した。そして、生まれて半年で母親は体罰を加えていた。母親が次男に母乳を与えるのを見て、Aはよく泣いたという。Aはそのころから孤独感が育っていったに違いない。Aは「弟がいるのだからしっかりしない」と母親からいつも厳しく言われ続けた。家族にも「おはようございます」と言うような礼儀正しさを身につけた。Aにとって、家庭は安心して甘えられるような場所ではなかった。
幼稚園で友達に玩具をとられたAがもじもじしているのを見て、母親は「取られたら取り返しなさい」と強く注意した。「緊張するなら周りの人間を野菜と思ったらいいからね」と、母親が幼稚園の音楽会で言った「野菜」という言葉は、Aの犯行声明文にある「野菜を壊します」という言葉につながり、母親は大きなショックを受けた。このころAは、「弟が泣いたら止めなさい。お兄ちゃんでしょう」といつも母親から厳しく叱責を受けた。あるいは尻を叩くなどの体罰を加えられた。
小学2年生になると、Aは女子の首を後ろからタオルで締めるグループに加わっていた。Aは先生に「お母さんが厳しいので内緒にしてほしい」と訴えた。
小学3年生の時の先生の評価。「根は大変優しいが、超テレ屋。怒られることに敏感で、心を出せない子。本当の情緒が育ってない」。このころ、「母親はスパルタでした」と記したAの作文の最後には、「お母さんがいなかったらいいな」とあったが、母親に見せるのをためらった担任によって削除されている。
Aはシグナルを出していた。そのころから何をするのも面倒くさがるAに、母親は以前にもまして口やかましく干渉するようになった。
ある日、兄弟喧嘩をしていたのを見かねた父親が、Aに手を振り上げた。するとAは宙を見つめ、震えながら「お母さんの姿が見えなくなった。前の家に帰りたい」と口走った。母親は心配になり医師に診せると、「過干渉による軽いノイローゼ」という診断だった。
4年生の時に、唯一家庭内でAをかばってくれていた祖母が亡くなった。Aは最初遺体が誰かわからなかった。触ってみると冷たい。生まれて初めて「悲しい」という感情を経験し、同時に祖母の死がきっかけでナメクジやカエルの解剖が始まったらしい。やがて「酒鬼薔薇聖斗」が誕生した。
6年生の時の先生は、「友達の気持ちを考えながら行動できる優しさを持っているが、一方殻を持った寂しい子のようで、こころの中に近づけなかった」と、また、「一回だけ自分の前で「何をするかわからん、このままでは人を殺してしまいそうや。お母ちゃんに泣かれるのが一番つらい。お母ちゃんはぼくのことを変わっていると思っている」と泣きじゃくったことがある」と語っている。そのころには、友達とエアガンで子どもを撃つ遊びをしていた。
実はぼくも息子が小さい時、「言うことをきかないから」と、息子を叩いていた。息子が幼稚園に入ると、先生から「おたくの息子さんはお友達を叩いて、仲間に入ろうとしません。家で叩いたりしていませんか?」と言われた。ぼくは冷や汗が出た。自分の受けた虐待を自分の息子に繰り返していたのだ。それ以来ぼくは、息子に手をあげなくなった。「虐待を受けると孤立して周りに敵意を向ける」ということを、ぼくは自分の青春時代に嫌というほど経験したものだ。
(part3に続く)
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