ネグレクト(part3)
なぜAは、両親への復讐に向かわずに、他人に対する「殺人ゲーム」に向かったのか。
それは「最後の最後まで母の愛情を求めていたから、理解を求めていたから、母には憎しみを向けなかったのではないだろうか」と、『あなたの子どもを加害者にしないために』の著者は言う。どうしても親への反抗ができずに、ヒトラーと同じように「虐待者との同一化」をしてしまった。被虐待者が虐待者になった。
犯行の最中にAは、サルバドール・ダリの「燃えるキリン」を母に見せた。その絵は、固定され身動きの取れない胸から、空っぽの「引き出し」が出ている。ハートは空っぽ。腕と頭は動かせるが、真っ赤だ。血の色だ。「首に巻かれたスカーフは、絞め殺そうと取りついている母のようである」と著者は言う。松任谷由実の「砂の惑星」も母に「聞いてみ」と言った。歌詞に「ただ泣きじゃくるように 生まれたままの子どものように」とある。
「両親がAのことを心から抱きしめたとき、彼の空虚な心は愛で満たされ、酒鬼薔薇聖斗は消えていくでしょう」と、著者は書いている。
両親はAをネグレクトして、ありのままの彼を抱きしめてやらなかったばかりでなく、世間からも遮断した。それで彼は警察という社会規範そのものに、まるで「自分を無視せずに、育ててくれ!」と要求したようだ。秋葉原通り魔殺傷事件の加藤容疑者が、警察に捕まってからしゃべり回り、警察に甘えていると報道されたことを思い出す。彼も確固とした「規範」が欲しかったのかもしれない。
Aは犯行前に「母さん。僕が死んだら泣いてくれるか?」と母に問うている。犯行後「人を殺したら、必ず死刑になると思っていました」と彼は書いている。彼は自らの死を賭して殺人ゲームを開始した。そして犯行後に「母さんにはぼくのことわかってほしかった。間違っているかもしれないけど、わかってほしかった」と語った。父親は「なぜAは私たち家族が憎いのか、軽蔑しているのかわかりません」と書いている。「このままの状態でAを家族の元に返せば、再発する」とも著者は書いている。
この本を読みながら虐待からくる現実感のなさなど、何度も「ぼくと同じだ」と思わざるを得なかった。ぼくは病気になったが、Aは犯罪者になった。何も違わない。
人は学んだ通りに生きていく。自分がされたことを人にする。厳罰化など、「腐ったみかん」を切り捨てる社会ではいけない。生きるモデルを示されずに生きる手段を教えられ、愛情よりスキルを教えられた人たちが次の親になっていっている。虐待の報告件数もうなぎ上りだ。親になれない親は、子どもに「育つな」というメッセージを送る。子どもの側も親の期待に答えようと、普通になろうとし、いい子になろうとする。「普通という仮面」をつけないと生きていけない社会は、誰にとっても息苦しく生きづらい。荒れる若者は炭坑のカナリアだ。一番弱いものがピーピー鳴いて、社会システムの危機を知らせる。今の恐慌で、社会保障や医療などが音を立てて崩れていった。
『あなたの子どもを加害者にしないために』の著者は、「地域が生きていれば、家庭が機能を失っても取り戻すことができる」と、最後の1章を割いて強調している。子ども時代に親から学びそこなった大切なことを、遅ればせながら、地域で学ぶこともできる。しかし今の日本では、地域崩壊が進行中だ。今年、大量の派遣切りで年末年始、日比谷に出現した「派遣村」という運動は、もしかしたら地域再生への手がかりになるかもしれない、というかすかな期待をぼくは持っている。
コメント
佐野さん、はじめまして。
「普通」という標準的なものにブナンなところで良い。少しでもはみ出ると、「変わり者」扱いされる。裕福?便利な暮らしに慣れ、待たされることが少なくなり、自分の物差しより外れる物には、すぐ批判する。遮断する。自分で選択したにも関わらず、ヒトの責任にしたり。こんな大人多くありませんか?
仲良しには注意できないくせに、見知らずのヒトには文句を平気でいう。主人公は、自分自身で同じ人間は一人もいない。そして、大切な仲間。便利だけ追求しすぎると、手間なことを嫌うヒトが増えちゃう。ヒト手間がとても素敵なことに気づいて欲しい。自分自身の負の部分も書きましたが、ギクシャクする歯車の違いも仲間への過程として楽しめるようになりたいです。
成長というのは、自分の物差しが長くなることなのかもしれません。もう少し、昔の不便を取り戻した方が、まともな社会と言えるかもしれません。ぎくしゃくとする人間関係を嫌う空気もありますね。昔の下町のような地域社会が取り戻せればいいといいと思います。
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