ひきこもりはなぜ「治る」のか?(part2)
今回は『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』(斎藤環著、中央法規出版)の感想の続きだ。
映画監督の押井守氏は、「すべての作品はコピーである」と言っている。すべての作品は誰かがやってきたことを真似している。斎藤環氏は、「自分の欲求すら誰かのコピーである」とまで言っている。先生や尊敬する誰かが褒めていたからほしい、ブランドだからほしい、スペックのいいパソコンがほしい、捨てようと思っていたものを誰かがほしがると急に惜しくなる、など。欲望のコピーから始めて学習しなければ、好きなことは見つからないのかもしれない。
ひきこもりの人はしばしば欲求を見失っている。誰かの欲求をコピーしないと自分の中から欲求が湧き出てくることはない、それで欲求をコピーすべき第三者の関わりが必要なのだ、と断言する。これは多分、氏が明るいフランスの分析医ジャック・ラカンの世界に通じるものではないだろうか。「ラカンはわからん」という言葉を聞くが、ぼくもまったくそうだと思う。
また、親でも第三者的に関わることができると氏は言う。押し付けることなく、本人が自分から進んで好きでコピーしないと欲求は湧いてこない。だから氏は親に「子どもにやってほしいことは、そのことを口に出さない。親が一番言いたいことを禁欲する」ことを勧めている。「就労」などは親と本人の切実な願いでもあるから、あえて口にせず、本人の想定外のことを言う。「言いたいことをあえて言わない」ことで意外性が生まれ、本人は「そこに親の思いやりを感じることがある」。難しいかもしれないけれど、どれもが親子関係に第三者関係を吹き込むことだと言う。
とりあえず親が「壁」になることをやめ、「踏み台」として利用されることも大切だ。ぼくも子どもを育ててみて、「子どもに親の期待を押し付けない育て方のほうが、子どもは早く自立する」ように感じている。引き出し屋にお金を出して引き出してもらっても、またひきこもっちゃう人も結構いるらしい。欲望をコピーしてから自分のものにして、本人が動き始めるまで待つのが基本だろうと思う。自分の仕事に対する欲望がわからない「指示待ち社員」の会社での増加も、ひきこもりの増加と重なる。
「「愛情」で関わらないで、「親切」にせよ」と氏は言う。親切は愛ほど押し付けがましさがなく、愛ほど見返りを期待せず、愛よりも穏やかで、恨みなどの副作用も少ない。愛ゆえに突き放すか、愛ゆえに抱え込むか両極端になりがちだから、「親切」の距離感と中立性が大切だと、別の本でも氏は述べている。これが思春期に「性」の問題を抱え込んだ、わが子への対応のキモだと言う。実際自分の思春期を振り返ってみても、「性」の悩みは親の想像をはるかに超えて、でっかくやっかいだった。ぼくは自分が「変態」であることに気づいて、悩み続け、孤立し、やがて発病への準備をすることとなった。
しかしどうしても本人の欲望が外に向かわない場合、一生ひきこもって、老いた親の介護をするという話も聞く。介護するひきこもりの多くは男の子だが、煮詰まって殺人事件にまで発展して、ニュースになることもある。
ニート問題はひきこもりと地続きにある、同じような問題だが、最近の非正規雇用の人たちの「生きさせろ!」と貧乏を社会に訴えていくインディーズメーデーやデモなどは、ひきこもりの人たちにも社会に出るステップとして、その面白さから入っていきやすい運動だろう。実際ひきこもりの人たちが「自宅警備員」などの肩書きで運動に参加していると聞く。
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