治療的「暴力」抑制論
2005年に医療観察法が施行された。同年『医療者のための包括的暴力防止プログラム』(医学書院)も出版されている。患者の暴力に焦点が当てられた影響だろうか、権威のある精神科医の中井久夫氏が、『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)のなかでも「患者の『暴力』をタブーにしてはいけない」と述べている。
患者の暴力には、「多人数で押さえ込み、鎮静剤を注射して保護室に放り込んでおく」というのが一般的だった。しかし中井氏は、自分の経験から「医者である自分が一人の時に暴力を受けたことが2回ある」と書いている。「地水火風になれ」などと相変わらずの中井節だが、氏の長い病棟担当で2回というのは、決して多くない。一般の職業でもそのくらいは身に差し迫った危険な時があるのではないだろうか。
なぜ今「患者の治療者に対する暴力」に特化した専門マニュアルが必要なのだろうか? 流行りの危機管理だろうか? 思えば、医療観察法ができてから患者の危険性がおおっぴらに認知され、患者の暴力を語ることが解禁になったのだろう。その証拠に、『医療者のための包括的暴力防止プログラム』を中心になって編集しているのは、医療観察法施設のある肥前精神医療センターの職員である。自分たちの時代になった、と言わんばかりである。
ぼくはムゲンを20年間やってきて、メンバーから暴力を受けたことはない。暴力的になった人から、こちらが「お礼参り」の危険を感じて、自宅を誰にも秘密にしていた時期はあった。しかし、息子も今年大学生になって、自分で身を守れる年齢になったこともあり、今では自宅もオープンにしている。以前は、怒りを買った人からの執拗な電話による「言葉攻め」で、非通知の電話に出られないという症状が1年間続いたことがある。
さて、『医療者のための包括的暴力防止プログラム』では、「患者の暴力に看護師がどんなに責められるか」ということが書いてあるが、患者からの暴力といっても、普通はたった一発殴られるくらいだろう。しかしそれがトラウマになり残ることが問題なのであって、のちの上司や同僚からのフォローで随分違うだろう。
「90%の看護者が暴力を受けている」とも書いているが、セクハラまで含めてである。確かにセクハラなど言葉の暴力は病棟でも多いが、直接の暴力はもっとずっと少ないはずだ。一般社会でも言葉の暴力はごく普通のことだ。患者だけに話を絞るからおかしい。それとも、「看護はいいことをする仕事なのに、暴力を向けるとは」という訳なのだろうか? 繰り返すが、上司や同僚のフォローが大切だ。
巨漢の人が暴れた時には、看護者数人で一斉に飛びかかって制圧してきたが、それではだめで、この本では患者に武道のさわりを教えるDVDまで付けるところに、イヤな感じを受ける。DVDでは、ひとりで対峙した時の逃げ方や(これは必要かもしれない)、多人数の看護師での制圧の仕方を詳しく教えている。暴力に対抗する研修をして一定の認定資格を与えるこのような看護の本道から離れたやり方には、ぼくは反対だ。基本的に警備員が武道を知っていればいい。
それに、患者からの暴力ばかりに焦点を当てているが、もちろん暴力的な患者もいるが、暴力的な看護師もいる。また、患者の間では「保護室に入れられること」は決して治療ではなく、「懲罰だ」という共通認識がある。本人も暴れたことは悪かったという意識はあるから、「罰として閉じ込められるのだ」と思っている。看護師が権力をもって(書類上は医師だが)保護室に入れることは、「看護」の面から見ると、職員の人員不足と力不足の結果ではないのか?
宇都宮病院事件は25年も前の話だが、精神科医療の基本構造は変わっていない。患者の暴力から身を守る本は出版できても、患者が看護師の暴力から身を守る方法は、決して本にならない。実に不公平だ。
2008年11月のこと。ベランダで大声を出して騒いでいる男性が飛び降りたので、警察車両が来て「足は軽症」と判断して精神科病院に搬送中、心肺停止に陥り、翌日死亡した。新聞記事にははっきりとは書かれていないが、暴れる男性の上に警察官が乗って、呼吸停止に至った可能性が高い。暴れる相手の専門家である警察官ですらやり過ぎてこうであるから、生半可な研修を受けた看護師がやればどうなってしまうのだろうか、と思う。
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