黄昏れネコ
隣で飼われているネコが、うちの夕飯時になるとやって来て、縁側にこちらに尻を向ける格好で前足をそろえて、座っている。それを娘と息子が見つけて、縁側の戸を開けるのだけれど、まったく気にする風もなく、じっとしたまま向こうを向いて座っている。
夕飯は、うちで唯一家族全員が揃う時で、ヘルパーさんも一緒にいる。それに引かれるように縁側に寄って来て、夕食の会話を聞くともなく聞いているかのようだ。いつしか、その黄昏れた雰囲気から「黄昏れネコ」と呼ばれるようになった。
ネコは自分の生きる意味など考えない。じっと黄昏れていたりする。ぼくもムゲンであまり役に立たない、黄昏れネコになりたいと思っている。存在しているのだけれど、誰も特に苦にもせず、別に作業を頑張るわけでもなく、時々思い出したように、みんなに向かって、ウケに関係なくギャグを飛ばしたりする。暇な隠居じじいのようだ。
自分がワーカーであることを忘れて、もうずいぶんになる。普通の年寄りの仲間入りをしている。40代で人生のピークを迎え、50代になると衰えをひしひしと感じる。そしてムゲンは、作業をするわけでもない人も作業する人も寄り合う場所になっている。コーヒー、紅茶、カルピス数種類、ほうじ茶、緑茶など、飲み放題になっている。月会費からまかなっている。一番多く飲まれるのは麦茶だ。時々、誰かがお菓子やぼたもちを持ってきておやつの時間になる。寄合い所の世話役である指導員も普通のおじさんおばさんだ。
さて、精神科ワーカーは、専門職であることを常に意識している人が多いようだ。職業上の秘密保持が厳重で、普通のおじさんおばさんには情報をもらさないし、仲間意識がとても強い。しかし、素人でも長く作業所をやってきた普通のおじさんおばさんのほうが病者の生活をよくわかっているのに、若いワーカーは素人おじさんおばさんにアドバイスを求めたりせず、スーパーバイズだ、生涯研修だ、課題研修だ、などと言って、専門性の追求に邁進しているようだ。まるで、自分たちだけが福祉を背負って立っているようだ。資格のない職員に「ボランティア上がりのくせに」と言ったりする。
うちの奥さんは、会合ばかり集まってやっているのを称して「裸の王様」と呼んでいる。ぼくには意味もないと思えることに、意味を求めているようだ。そっちに行っても、何にもないのに。「知識は天下の回りもの」なんだから。ぼくの考え、狂っているのだろうか? でもあっちのほうが業界では多数派だ。自分がない人が多いな、とも感じる。
ワーカーは、上から目線の人もいると思う。下のほうへと降りてきたらいいのに。まっ、上から目線はワーカーに限ったことではないけれど。
それに、福祉の世界に吹き寄せられてくる人の中には、尽くすことで自分の無価値感を埋めようとしたり、共依存だったりする、虐待などの被害者も結構いることも知っている。福祉はゆったりした時間が流れ、比較的安全だ。ぼくが福祉の分野に深入りしたのも、癒されるからだ。
第一、研修などでいくらお勉強しても、世界中の知識の量に比べれば、自分が何一つ知らないのに等しいことはまったく変わらない。何も知らないという謙虚な姿勢だけを持っていればそれで十分ではないだろうか?
知識はいつだって中途半端だ。中途半端なまま現実に向き合わざるを得ない。30年以上病者をやってきても、「統合失調症とは何か?」と聞かれるとうまく説明できない。精神科医も勢いDSMのようなマニュアルに頼りたくなる気持ちもわからないわけでもない。結局、自分は何もわからない。
どこでも自分の思いどおりに運営したい人はいるものだろうが、県協会も例に漏れなく、うんざりした。結果、本協会にも脱会届を出した。籍を置いておくと、毎年の会費の未払いが増えるばっかりだ。
人を自分の思いどおりにしたい人は、決して強い人ではない。「北風と太陽」の話にあるように、力を持っていても使うこともなく、待ったり、人に尽き従ったりできる人が、結局のところ強い人だと思う。人にあまり期待しないことも大切だろう。
3月いっぱいで、協会の黄昏ネコも野良猫になった。社会で生きる必要はあるけれど、世界に生きる必要もないみたいな。ぼくは決定的に社会性に欠けているようだ。
今日見たら、黄昏れネコは、門柱の上で眠りながら、こっちをうかがっていた。
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